これの前に読んでいた本に一節が引用されていて、昔読んだのに爽やかだったってことしか覚えてなくて読み返してみたところの、三島由紀夫「潮騒」。久しぶりに三島読んだけど、前に読んでたのが現代作家でわりと崩れた文章だったのもあって、その端正な文章がすごく心地いい。そして潮騒はやっぱり爽やかだった。三島じゃないみたいよねこれ。
「読書」カテゴリーアーカイブ
天災と国防
ずいぶん前に文体一致診断で寺田寅彦と言われたので(今日やってみたら浅田次郎だった)買って積んでいたところの寺田寅彦「天災と国防」。著者は物理学者で「天災と国防」ってんで、さぞや小難しい論説文なのかとおもいきや(だから長年積んであったw)、2011年の東北地方太平洋沖地震の後にまとめられた災害関係の随筆集だった。
書かれたのが戦前なので現代には当てはまらないこともあるのは当然だけど、深い考察から得られたものは現代の問題を考えるにも参考になる部分が大きいとおもう。「津浪と人間」の冒頭で、こんなに度々繰返される自然現象ならこれに備えて災害を未然に防ぐことができそうなものなのに実際はそうもいかないのが人間的自然現象だと言っているが、まさにその通りで同じように災害は繰返された。そして「天災と国防」の中で「文明が進むほど天災による損害の程度も累進する」と指摘しているが、先の震災での原発事故を思わずにはいられない。
ニッポンの音楽
よそのブログで見かけてポチッたところの佐々木敦「ニッポンの音楽」。1969年から始まる「Jポップ」葬送の物語であり、ニッポンの寓話でもある。時代を代表するというよりは、「外=欧米」から「内=日本」へと向かう流れの中心となったミュージシャンたち、70年代 はっぴいえんど、80’年代 YMO、90年代 渋谷系と小室系、00年代 中田ヤスタカ、各年代の主人公の物語で解き明かす。
YMO は数年前に友人の影響でよく聴くようになったけど、知っているのはその音楽だけで、彼らがいた当時にどんなふうにでてきてどんなふうに活動していたのか全く知らなかったので、へぇ〜〜ということがいろいろあった。あそこらへんのミュージシャンたちの横のつながりとか、ああそういう流れなのね、と。
わたしがリアルタイムに経験したのは小室系。中学生の頃、そこらじゅうに小室系があふれていた。自発的に聴いていたわけではないけれど、当時の思い出と共にものすごく記憶に残っている。あまりにもなつかしすぎて、安室奈美恵の 181920 をポチ・・・りそうになったけど、ウィッシュリストに入れるにとどめておいたw
最終的に筆者は今や「内」と「外」という区別はほとんど意味を持っていない、と述べている。確かにインターネット時代にあって時間的な差はなくなっているけれど、Jポップそのものはなくなったという感じはしないかなぁ。まあ現在チャートの上位を選挙じゃなかった占拠するアイドルたちもまたちょっと違うくくりなのかもしれないけど。
赤ちゃんと脳科学
ようやく本を読む余裕がでてきた。というわけで、小西行郎「赤ちゃんと脳科学」。脳科学の知見から、近年の発達段階を無視した過剰な早期教育に警鐘を鳴らす。科学的に育児を検証し直し、幸せな人間に育てる為の「普通」の育児の重要性を説く。
某掲示板で、子供にテレビを見せることの是非についての書き込みがあり、そこで紹介されていた本。テレビが子供に与える影響については第5章で詳しく書かれており、それも興味深いものだったけど、それ以上に本書を通して伝えんとする著者の考えに共感した。子供の発達を楽しみ、育児を通して親子が理解し合い、そして夫婦がお互いを高め合う。そんな普通の育児こそが大事なんだなと。当たり前のことのようだけど、溢れる情報の波にのまれて踊らされてる部分も大いにあるとおもう。子供を幅広く見る姿勢を忘れずに、その発達を楽しみながら日々過ごしていきたい。
子どもへのまなざし
そういや妊娠・出産にまつわる本は何一つ読んでいなかった。そういった類いの本を読むという思考そのものが欠落していた。で、そんなわたくしに友人が貸してくれたのが、佐々木正美「子どもへのまなざし」。育児書を読む、という思考も欠落していたので、いやはや感謝ですな。
まあ教育も宗教みたいなもんで何を信じるかは人それぞれだけど、ひとつの指針として大いに参考になった。果たしてわたしにこんなふうに理想的な子育てができるのだろうか、いやたぶんできないだろうw 頭ではわかってても、なかなか実行するのって難しいもの。でも、意識するきっかけにはなったはず。いい本なので、改めて自分で購入。子育てに悩んだ時に開くことになりそう。
父・こんなこと
そういえば去年の8月は吉村昭の「冷い夏、熱い夏」だった。で、今年はこれ。幸田文「父・こんなこと」。父である幸田露伴の闘病と、死に至る日々の記録。
これ読みながら、自分も父上の死への記録を書いたもんだけど、幸田文はどんな気持ちでこの文章を書き留めていったんだろうなぁ、などとおもった。偉大なる文豪・幸田露伴である父、だけど自分にとっては父は父。そんなふたりの関係もじんわりしみる。昭和初期の生活の様子が鮮やかに描かれていて、そういうのも楽しい。文章も美しい。
こうして新地名は誕生した!
子供の名前の次は地名。てことで、楠原佑介「こうして新地名は誕生した!」。平成の大合併で誕生したおかしな地名を検証する。
地名に限ったことではないが、最近のなんでもかんでも平仮名表記する風潮が気に食わない。地名で言えば、さいたま市だの、つくばみらい市だの、かすみがうら市だの、間抜け極まりない。そんな平仮名地名の他、合併によってできた新しい地名にはおかしなものがたくさんある。この著者の主張は「中世以前からある地名じゃないとだめ」という非常に保守的なもの。まあ何もそこまで厳密にこだわらなくても・・・とおもう部分もあるけど、わけわからん地名になってしまうよりはマシというもの。破談になった「南セントレア市」がクソだってのは誰が見てもわかるけど、山梨県の「北杜市」なんてのは一見問題なさそうだけど、著者に言わせればトンデモ地名だそうで、言われてみればなるほどとおもったりもする。まあ何にしても、伝統的な由緒ある地名がちゃんと残っていってくれることを切に願うばかり。
子供の名前が危ない
そろそろ太郎の名前を考え始めてもいいんじゃないかい。男の子だったらつけたいのが決まってたんだけど(さすがに「太郎」ではない)、どうも女の子のようなので女の子の名前も考えなくてはならぬ。とはいえわたしゃもう圭子しか思い浮かばん。苗字と合わせたときの字面もいいし、落ち着いた感じでいいとおもうんだけど、「子」がつく名前は古いとか言うし(わたし「子」つけたいんですけど!)、かといって何か案を出してくるでもないし、なんなのなんなのもう。今時の名前がどうにもしっくりこなくて、なんだかなぁとおもいつつ手に取ったところの、牧野恭仁雄「子供の名前が危ない」。
いわゆる DQN ネームが増えており、最近は facebook なんかでも昔の同級生の子供が「ああ・・・」ってかんじの名前だったりすることも多々あるわけだけど(笑)、そういう本書でいうところの珍奇ネームをつける親をただのバカとして片付けるのではなく、なぜそういう名前をつけようとするのかという心理を、難読名をもつ自らの体験を交えながら考察している。名前に表れる世相というのもなるほどねぇとおもうところもあり、なかなかおもしろかった。
名前にあらわれる世相とは、「その時代に強く求められながらも、手に入れ難いもの」
手紙
犯罪加害者の家族の話ということでどこかで見かけて積んであった、東野圭吾「手紙」。強盗殺人罪で服役中の兄を持つ弟が、自分は何もしていないのに犯罪者の弟というだけで社会の中で理不尽な差別を受け続ける。その兄から、獄中から毎月手紙が届く。
作中に登場する人物たちはものすごく嫌なやつだとか悪人だとかはいなくて、みんなごく普通の人だ。だけど、だからこそ、当たり障りない程度の距離をおく。その境遇には同情はするけれど、犯罪加害者の家族にあえて深く関わろうとしないというのは、当然といえば当然なのかもしれない。勤め先の社長の「差別は当然」という言葉が突き刺さる。冷たいようだけど、でもこれってすごく現実的だよなぁとおもった。
差別はね、当然なんだよ。犯罪者やそれに近い人間を排除するというのは、しごくまっとうな行為なんだ。我々は君のことを差別しなきゃならないんだ。自分が罪を犯せば家族をも苦しめることになる―すべての犯罪者にそう思い知らせるためにもね。
終着駅殺人事件
先月のタモリカレー会の際、くもさんちで延々テレビ見てたわけだけど、その時やっていた西村京太郎サスペンス。都合よすぎwww ベタすぎる展開www とかなんとかツッコミ入れつつも面白くて真剣に見入っていたのもまた事実。で、原著を読んでみましょうかねってことで、西村京太郎「終着駅殺人事件」である。
基本的なストーリーはドラマと同じだけど、1980年の作品であるということと、ドラマにするに当たって変えたであろう設定いろいろで、ちょいちょい違ってたのでそれもまた楽しめた。西村京太郎って今回はじめて読んだんだけど、なんか無駄に読点が多くてはじめの方すごいイラッとした。読んでるうちに慣れたけど。にしても、ドラマ同様ツッコミどころ満載というかなんというか・・・もっと緻密に組み立てられたミステリっていくらでもあるよね、みたいな。。まああれだ、通勤電車の暇つぶしに最適、ってとこかしらねw