終りの季節 [2月~7月]

「俺、近い将来死ぬぞ。覚悟しておいてな。」

2012年2月3日。その日わたしはスキーに行くので、車を借りるために実家にいた。何やら「話がある」とかで他の兄弟も集合がかけられており、兄の帰宅を待っていた。しかしわたしの出かける時間が迫っていたため、結局兄抜きで家族会議がはじまった。そして唐突に父は言う。俺は近い将来死ぬ、と。

人はいずれ死ぬ。そういう話なのかとおもった。父は現在67歳、決して若くはない。日本人男性の平均寿命から考えたら、あと10数年か。たしかにそう遠くはない。しかし、どうもそういう話ではないらしい。そして言う。癌だ、と。去年の11月くらいから腹部の痛みや体調不良を訴えており、あまりに長引くため今年1月にようやく病院で検査を受けた。そしてその結果が出たのが、2月1日だった。これから精密検査になるが、ほぼ間違いないだろうと言う。

癌? この人は何を言ってるの? 勝手に思い込んでるだけなんじゃないの? そうだよそうだよだいたい精密検査まだなんでしょ? 癌なわけないじゃん。ピンピンしてるじゃん。スキーに向かう車の中で、「大丈夫、父上は癌じゃない。癌なわけない」とただ、それだけ考えていた。

かのスティーブ・ジョブズも同じ病気で死に至ったことは記憶に新しい。アップル好きの父は、「ジョブズ君と同じになっちまったよ~」と、半分冗談のように言った。膵臓癌。初期は自覚症状がほとんどなく、発見された段階で既に手術ができない状態というのが過半数を占めるという。そして手術ができなかった場合の1年生存率は、わずか数%。早期発見が非常に困難で進行が早く、極めて予後が悪いことから、「癌の王様」とまで言われるそうだ。そんな王様いらない。

2月中旬に癌研での精密検査の結果で、既に手術ができない状態であることがわかり、地元の病院で抗癌剤による治療を行うことになった。初めは様子を見るために1週間ほど入院したが、副作用もさほどなく、退院した後は血糖値を測って自分でインシュリンを打ちながら普通に会社に行き、生活していた。あまりにも普通なので、癌だということを忘れるくらいだ。それでも父の身体は、確実に蝕まれていたのだ。

3月末、家族でキャンプに行く。数年前から何度か話が持ち上がっていたものの、家族全員の予定を合わせることができずに実行に移せずにいたのだが、無理矢理日程を合わせて決行。15年ぶりとはいえ、父上の飯盒で米を炊く職人技は衰えを見せない。以前と変わらぬ、完璧な炊きあがりのおいしいごはんであった。嵐に見舞われたりしたが、かえって記憶に残るとても楽しいキャンプとなった。

4月26日、わたし入籍。新居も何も決まらないままとにかく入籍をこの日にこだわったのは、父と母の結婚記念日だから。両親は今年、結婚35周年である。そしてまた、妹も結婚するという話が出ている。図らずも重なることとなる。わたしが結婚を決めたのは今年2月、ちょうど父の癌が発覚したのと同時期だった。そのため、手放しにおめでたがるような雰囲気ではなく、父も母も喜んでる感じがあまり見受けられなかったし、実際それどころではなかった。だけど後で父の友人が、わたしが結婚したことをとても喜んでいたと、嬉しそうに話してくれたよ、と教えてくれた。それを聞いたのは、父の告別式の席だったのだけれど。

5月10日、朝 4:44 に iPhone が鳴る。母からのメールだ。こんな早朝に、とドキリとする。母方の祖母が亡くなったとのことだった。ああ、2012年という年は、なんて年なんだろう。本当に、なんて年。

5月12日、帝国ホテルでわたしところすけの小さな結婚式。便宜上「結婚式」と言うことにしているが、挙式はせず、写真を撮って家族だけでの食事会というごくごく内輪の簡単なもの。だけど、これ、やってよかった。心から。家族に囲まれて、心温まるとてもとても幸せな1日だった。友人2人に支度の間だけ写真を頼んだんだけど、これも2人に撮ってもらえて本当によかった。この時撮ってもらった家族写真、すごく大事にしている。宝物、と言ってもいいくらいに。

5月14日、祖母のお通夜の後、戸塚の家で家族会議。おもに会社や相続についてだが、あまり話は進まない。兄は継ぐ気がないとずっと言っていたが、最近は会社を手伝いはじめている。でもあくまで「継ぐ気はない」というスタンスのようだ。そして弟が言う。俺は就職したばかりで今すぐには無理だ。だが、3年待って欲しい。3年で一人前になる。そして3年後に協和電子を継ぐから、と。そして、ただし条件がある、と弟は続ける。それまで絶対に生きろ。3年後、兄が継いでいるならそのままでいいし、やはり継ぐ気がないなら俺がやる。どっちでもいいんだ。とにかく生きろ、と。わたしは溢れる涙が止まらなかった。生きろ。絶対に。3年なんて言わずに、もっともっと。会社の心配がなくなれば、父は肩の荷が下りて楽になるんじゃないか。それで、病気もよくなるんじゃないか。そんな期待が生まれた。大丈夫。きっと大丈夫。

5月15日、祖母の告別式。かあばあに父上の癌を一緒に天国に持ってって、と、うさぎのぬいぐるみに託す。おばあちゃん、お願いね。どうか、どうか。

6月上旬、両親は懸賞か何かで当たったとかで、焼津に旅行へ行く。夫婦で旅行なんて、今までほとんどなかった、というか、初めてかもしれない。途中、その旅行のスポンサーになっているらしき真珠屋に寄ったとかで、わたしと妹にお揃いの真珠のネックレスをお土産に買ってきてくれた。

6月中旬、黄疸が出る。癌が大きくなって胆管を塞ぎ、胆汁が血液に逆流しているとのこと。胆管ステントの手術をして黄疸はなくなったが、体調はあまりよくない様子。そして6月15日、余命4ヶ月との宣告を受ける。本当に? まさか。4ヶ月なんて。ありえない。しかし抗癌剤治療は中止され、緩和ケアへ移っていった。それは、西洋医学の限界を意味していた。それでもわたしはこの時まだ、事実を受け入れていなかった。この日は、妹が入籍した日だった。

6月下旬、両親は銀行の旅行で松島へ行く。図らずも夫婦での旅行が続くこととなる。黄疸騒ぎでどうなるかとおもったが、行くことができてよかった。

6月26日、祖母の四十九日の法事で鎌倉へ。最近はあまり車の運転はしていなかったらしいが、この日の朝は父上が運転していた。カーステレオの音楽に合わせて歌ったりして、楽しそうにしていた。こんな姿を見るとホッとする。しかし昼食会場の駐車場で、母上が車に手を挟まれ負傷。幸い骨までは折れていなかったものの、全治3週間の怪我。本当に、受難の年だ。いったいどんな意味があるというのだろう?

7月から、兄が本格的に父上の会社を手伝うことになった。あまり口には出さないけれど、父上も母上も喜んでいる様子。しかしこの頃、母上が立て続けに車の追突事故を起こす。母上も相当参っているんだろう。家族がしっかりサポートしてやらなければ。

7月中旬、MacBook を買うとかで父上と電話をすると、元気そうな声をしている。なんでも、高輪にある療養施設みたいなところに数日間だけ入院しているらしい。そこではガン友(笑)とかもできて、楽しくやっている様子だった。だけど退院後は、また下降。実家で家族が揃っても、コミュニケーションとろうとしない。本音を語ってくれようとしない。どうしたいのか? わたし達に何ができるのか? 弟は言う。「あれじゃ10月までももたない」

7月17日の夜、寒気がするといって急遽入院。後で兄に聞くところによれば、真っ青になってがたがた震え、本当にやばかったらしい。診断は腹膜炎。翌日電話をするが、元気がない。でも体調はそれなりに戻ったとのことだった。

7月19日、「がんを生きる」を読んでいて、急に「父上が死ぬ」という現実を認識する。朝の通勤電車の中で、どうにもこうにも溢れる涙を止められなくなってしまった。父上は死ぬの? 本当に? あの暗い表情のままで? わたしは父上に何をしてあげられるの? 何もできない? 父上は、残された時間をどう生きたいの? どうしたいか教えて欲しい。全力で叶えてあげたいから。それともそんなこともどうでもよくなってしまっているの? わからない。何もわからない。

7月21日、腹膜炎で入院しているので、家族みんなでお見舞いに。お腹は腹水で膨らんでるし、腕も浮腫んでしまっているけれど、体調は悪くないようで元気そうにしていた。全員揃って行ったので、自然と家族会議。会社のことなんかもう忘れて、好きに生きればいいっておもってたけど、父上にとって、やっぱり会社が全てなんだとおもう。だから、会社がうまく回っていくことが心の安静なのだ。どうしても兄に負担がいってしまうけど、なんとかがんばってほしい。7月24日に退院となる。

鎮魂歌

兄の参加するアマオケの演奏会が小平であったので行ってきた。遠いのでちょっと迷ったけどやはり行くことにしたのは、演目がフォーレの「レクイエム」だったから。父上の魂はまだそこらへんをウロウロしているはずなので、きっと今日も小平に来て、一緒に演奏を聴いていたことだろう。まあ、父上のことだから、どうせ最前列で爆睡していただろうけど(笑)。

イケてる骨壷

父上は、生前にとある作家に骨壷を発注していた。なんでも祖父の時に業者が用意した骨壷が相当気に入らなかったらしく、自分のはもっといい骨壷にしたいと強く希望していたらしい。器とかが大好きだったから、自分が使う最後のモノにはやはりこだわりたかったのだろう。癌が発覚するずっと前から言っていたそうで、それがこんなに早くに実現してしまうとは、なんだか不思議なものだ。

頼んでいた骨壷は、葬儀にはギリギリで間に合わなかった。そもそも骨壷の持ち込みというのはできなくて、どちらにせよ四十九日に納骨する前に、父が発注した骨壷に移し替える必要が出てくる。今日はその移し替えの儀であった。お寺に頼んで、正式な法要ではないので集まれる親族だけ集まって、イケてる骨壷に移し替えた。

世界に2つとない、素晴らしい焼き物の骨壷。父上もさぞや満足していることだろう。

終りの季節

父がこの世を去って、2週間経った。なんだかあっという間だ。わたしは今までと何ら変わることなく、朝起きて、会社に行き、帰ってきて、家事をして、寝る。そしてまた、次の朝が来る。父がいなくなっても、世の中は何事もなかったように動いているし、日々は同じように過ぎていく。家族からの電話やメールにドキリとすることがなくなり、穏やかな日常に戻っていく。

わたしはもう何年も父とは一緒に暮らしていなかったから、普段は父の不在を意識することが少ない。だけどふとした瞬間に、父の口癖だとか、仕草だとか、わたしの名前を呼ぶ声だとかが頭に浮かぶことがあって、たまらなく寂しくなる。実家に帰っても、父の会社に行っても、いつも座っていた席に父上はいなくて、ああいないんだなぁ、とおもったりする。不在という存在の寂しさを感じる。

父が癌と診断されたのは、今年2月。だけどはじめのうちは、全然実感がわいていなかった。というか、事実を事実として受け入れられなかったんだとおもう。父上は死なないとおもってたし、病気はよくなるもんだとおもっていた。信じてた、とかじゃなくて、当たり前にそうおもっていた。死ぬわけないじゃん、と。

だけどある日、本を読んでいる時に、突然事実を受け止めた。佐々木常雄「がんを生きる」。それまであえて避けていたガン本に手を出し始めて、何冊目かに読んでいた本だった。これを読んでいて、なんだかわからないけど急にわたしは「父上が死ぬ」という現実を認識したのだ。朝の通勤電車の中で、溢れる涙をどうにもこうにも止められなくなってしまった。父上は死ぬの? 本当に? あの暗い表情のままで? わたしは父上に何をしてあげられるの? 何もできないの?

6月半ばに、余命4ヶ月と宣告されていた。その頃は、もう以前の父上とはまるで顔つきが変わってしまっていた。体調は日に日に悪くなり、会社では社員の人を怒鳴りつけたりすることも多くなったという。いつも暗い表情をして、心を閉ざしていた。きっと、死について考えたりもしていたとおもう。いや、考えざるをえないだろう。だけど口に出すのは会社のことばかり。わたしたち家族は父上が今何を考えているのか、死についてどう思っているのか、残された時間をどう生きたいのか、それをとても知りかった。父上に本心を語ってほしかった。だけど、その胸の内を語ってくれることは、ついに最後までなかった。何をしてあげられるのか、何もしてあげられないのか。何もわからなかった。それがとても、悲しかった。

父が創業し今までやってきた会社は、来年で40周年を迎える。10年続く企業が 5% と言われる中、苦労しながらもここまできたのはすごいことだとおもう。しかし、67歳の父に替わる後継者がおらず、いつも「会社どうすんだ」と、そればかり言っていた。告別式の席で父上の友人に「子供4人もいてだれもやってくれないんだ」とこぼしていたことを聞いた。継いで欲しいなら素直にそう言えばいいものを、それを強いたくはないと決して言わなかった。一時期わたしも継ぐことをかなり考えたりしたが、結局決断することはできなかった。もう何年も続いていた後継者問題は、父にとって相当なストレスになっていたのだろう。

父の死が避けられないものと知り、残された時間が少なくなるにしたがって、会社のことはもういいから、自分のやりたいことだけやればいいのに、とおもった。好きなことをして、心穏やかに残された時間を大切に生きればいい。他の家族もみんなそう言った。だけど、そうではなかった。父上にとっての心の平穏は、結局のところ会社がうまく回っていくことによって得られるのだ。最後の半月ほどでよくわかった。病状が悪化してきても、会社の人がお見舞いに来ると表情が生き生きとするのだ。仕事の話をしているときが、1番輝いていた。父上にとって、協和電子工業株式会社は、人生そのものだったのだ。

父の死に直面して、死についてものすごく考えるようになった。死ぬこと、そして生きること。人間の身体のこと。死を意識することは、今を大切に生きることにつながる。そして、家族の結束力はより強固なものになったとおもう。これは確実に言えること。特に兄はまるで人が変わった。本当に変わった。兄が変わるために父上が癌になったんじゃないかとおもうくらいに変わった。今まで好き放題していた兄が、会社を手伝い、実家に戻り、父と母のために尽力してくれていた。葬儀で喪主の母をサポートする姿は、本当に立派な長男だった。また、会社の代表という立場的なこともあって、病気のことは本人の強い希望で父の周囲にはずっと伏せられていた。だけど、母の友人たちは毎日のように入れ替わり立ち代りお見舞いに来てくれていた。いよいよ最後になって、駆けつけてくれた父の友人や親戚たち。中には毎日来てくれる方もいて、父も元気づけられたとおもう。この半年で、わたしたち家族はとても大切な大きなものを失ったけれど、得たものもたくさんあったのだ。

今でこそ激しく子供に甘い母上だけど、幼い頃はそれはそれは厳しい母親だった。そんな母の横で、いつも黙って穏やかに見守ってくれていたのが、父上だった。とにかく仕事が第一で、休みの日もとりあえず会社に行かないと落ち着かない。でもそれも全ては家族と社員のためだったはず。子供4人、みんながみんな好き放題して生きてこられたのも、父ががむしゃらに働いてくれていたから。今ならそれがどんなに大変なことか、痛いほどよくわかる。父上、心から、ありがとう。父上と母上の娘で、わたしは本当に幸せでした。親孝行できなくてごめんなさい。父上が天国で安心していられるよう、日々過ごしていきたい。残された家族みんなが幸せであることが、父がいなくなってしまった今できる最大の親孝行だと信じて。

iPhone 5

iPhone 5
ほぼ噂通りであった。画面大きくなっちゃって、わたし確実に左上指届かないな。あのツートンやめてくれっておもうんだけど、公式で見るとそんなに悪くない気がしないでもないような気がしてくるような気がしないでもないから不思議。まーすぐには買わないけど、そのうち買うかも。買わないかも。

iPod nano が縦長に戻ったのがなにげに嬉しい。てか、それより何より今は Mac mini のほうが重要事項!! 11月くらいにひっそりアップデートされればいいんじゃないかとおもうよ!

待ち人

感情だけで簡単に決めていいものではない
よく考えて先を見据えた上で
きちんと話し合って結論を出さなければいけない
そうだな
そうだ
うん
大変だ・・・ほんとうに
失ったものの大きさを痛感する

最後の体内の状態

父上は膵臓癌だった。病気の進行としてはごく典型的なパターンだったようで、ネットなどで調べたその通りの経過をたどっていった。

人間の身体の機能が失われていく過程をずっと見ていたわけだけど、その最後、父上の身体の中は、いったいどうなっていたんだろう。最後の体内の状態を CT とか撮って見てみたかった。なんかそれをすごく強くおもう。

もう、焼かれて骨になっちゃったから、それはわからないんだけどね。

黒留袖

今日は午前中はすごいがんばって予定をかなり早くにこなしたのに、午後はほとんどぼんやりして終わったような気がする。なんなんだかもう。。

どうでもいいけど呉服屋はほんとにブルジョワジーな世界だな。桁が違いすぎる。だけど日本の伝統工芸の集大成とでもいうのか、いいものってホントすごいな。贅の極み。溜息でちゃうわ。