二月十日

今日はおやじの命日。
なので山の頂で黙祷。

お墓参りは日を改めて。
みかん持って。
ストーンズをながして。


* * *

1年前の今日、とある人を亡くした。社会的に見れば「勤めてる会社の社長」なんだけど、いろんな経緯があって、ただの社長という人とは違った。第二の父親ともいえる存在の人だった。父親とも恋人ともいえるような、でもそのどちらでもない、そして今の自分がある上でものすごい影響を与えた人だった。実の娘とおなじくらいかわいがってもらっていたし、あれはまさに愛だった(まあ、その愛ゆえにセクハラまがいのこともあったけど(笑)。

彼が亡くなったとき、まったく意味がわからなくて、実感もわかなくて、死んだ、ってことをあんまりわかっていないようで、ただいなくなったって事実だけが先にあって、だから哀しいとかそーゆう感情がわかなくて、ただ単に事務的に、「これからこの会社、そしてわたしはどうなるんだろう?」と、漠然と将来の不安を感じただけだった。それは1年前のブログを見てもわかる。だけど、この1年の間、何かあるごとに彼を思い出す。そして、不在という存在の哀しさに気づく。

未だに信じがたいというか、会社の人と「大木さんは○○だったよな~」とか過去形で思い出話をするのに違和感をおぼえるし、いつものように「どうもどうも」とかいって事務所のドアを開けて入ってくる気がしてならないし、スカイラインの助手席に乗っけてもらってどこかにいくような気がしてならないし、それセクハラだろってかんじのスキンシップをとってくる気がしてならないし、日曜日の誰もいない事務所でひとりでギターを弾いてる気がしてならない。だけどいない。人が死ぬって、どういうことなのか、こんな年にもなって未だによくわかってないような気がする。

なんだかうまくまとまらないけど、大木さんが亡くなって1年経った今、私はこんなことを考えているなあということでここに書きとめておきます。私の住むこの部屋は彼らとわたしとの始まりでもあり、彼が与えてくれた場所でもあり、だからとても大切なのだ。わたしはここにいて、何かをしなければならんのだ。だからがんばるのだ。

2 thoughts on “二月十日

  1. by covaemon at

    ぼくも、親父が死んで1年目は憶えてたんですが、2年目は完璧に頭から抜けてました。
    来年も覚えていてあげてくださいね。

    返信
  2. by petite-tomo at

    おふたりとも、コメントありがとうございます。えーっとえーっと、おやじというのはおやじで、おやじじゃなくて、いやその、実父は生きてます、ピンピン (笑)。でも、第二の父親ともいえる存在の人でした。詳しいことはコッソリ追記しておくので興味があったら読んでみてください。

    >鍵さま
    コメントありがとうございます。気丈っていうか・・・よくわかってなかったんですよね。いなくなったっていう事実だけ先にあって。だからなんかすごく事務的に捉えていたかんじなんです。哀しいとか、そういった感情じゃなかった。未だに人が死ぬことってよくわかっていない気がします。

    黙祷ありがとうございます。おやじもよろこんでることとおもいます。

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