思い出話」タグアーカイブ

かよんち

実家の向かいの小学生の頃からの友達の家が取り壊されることになり、数日前から工事が始まった。ご両親とも亡くなって、住む人がいなくなったからだ。

母上に写真を撮ってもらったら、昔よく一緒に遊んだ彼女の部屋とか、印象的な階段の吹き抜けなんかが露わになっていて、ひどく切ない気持ちになった。リビングは段差がついていて、おしゃれな造りだったよなぁと思い出す。友達の部屋は天井が高くて、大きなベッドとドレッサーがあって、もちろん1人部屋で(うちは兄弟多いから1人部屋なかった)、密かに憧れていたものだ。寂しいけど、時の流れには抗えないものだな。

友達は旦那さんが転勤族で、現在上海在住だけど、一時帰国してももうあの家には帰ってこないと思うとまた寂しい。お互いの子供が歳近いこともあって、帰省時はよく一緒に遊んでた。全部思い出になっちゃったな。いつかまた会える日を楽しみに。

消えた八月

さて、私のピアノ伴奏屋歴はそういうわけで小学校から高校卒業までとなるわけだが、もう1人の伴奏屋の話を書いておきたい。私の兄である。彼の伴奏屋業は、ただ1度であった。

兄も3歳からピアノを習っておりかなり弾けるのだが、私と同様ずっと人前ではそれを明かさなかった。私は小学校5年の時に伴奏屋デビューを果たしてしまったが、兄はピアノを弾けることをひた隠しにしていた、のかよくわからないが、とにかく学校で弾くようなことは一切なかった。

ところが、中学3年の時、担任の先生に合唱祭のピアノをぜひやってほしいと頼まれたらしい。なぜその先生が兄がピアノを弾けることを知っていて、なおかつ彼に弾かせたがったのかは不明だが、とにかくその先生は兄に弾かせたかったらしい。中学3年生が歌う合唱曲ともなると、ピアノ伴奏もけっこう難しいものもあったりする。兄のクラスがやることになったのは「消えた八月」という、原爆をテーマにした曲。この選曲もその先生によるものであるらしい。難しいこの曲を見事に弾きこなす普段は目立たない小柄な男子生徒に、他の先生や生徒はさぞかし度肝を抜かれたことだろう。そもそも男子がピアノ伴奏をやることも珍しいのだ。

私はこの兄を見て、ああ、きっと私のクラスや学年にも実はもっと弾ける生徒がいて、あいついつもピアノで出てくるけどヘタクソだな、くらい思われてたのかも、と思わずにいられないのであった。兄がこのようなピアノ伴奏をするのはこの時が最初で最後だったが、高校で室内学部に入り、大学オーケストラ、そして現在のアマチュアオーケストラへと続いていく。楽器はピアノからチェロ、コントラバスと変わっていったが、ピアノはずっと弾いている。やはり音楽の基本なのだ。

まあそんなこともあってこの「消えた八月」、中三では自分のクラスも歌いたいピアノやりたいとおもってたんだけど、誰一人賛同してくれる者はおらず、「ひとつの朝」に落ち着いたのであった。やりたかったなぁ。

ドラクエの思い出

今日はドラクエの日であるらしい。ドラクエじたいはやったことがなかった(だって子供の頃ゲームなんて買ってもらえなかったから)のだが、ドラクエのテーマ曲というのは思い入れがある。なぜなら、私が小学校〜高校までの間、ピアノ伴奏屋をやるきっかけになった曲だからである。

私は3歳からピアノをやっていたけれど、学校でそれを披露することはなかった。小学校5年のとき、音楽の授業で合奏をやることになった。この時の曲がドラクエのテーマ曲だったのだ。

いつもはこういう時のピアノ係は他の女の子だった。仮に秋子ちゃんとしよう。彼女はこのような合奏や、合唱祭などの時は暗黙の了解的に必ずピアノ伴奏をする子だった。そして、この子に反感をもっている子がいた。仮に京子ちゃんとしよう。私は京子ちゃんに、「ともちゃんてピアノ弾けるんでしょう? 次の合奏のピアノ、ともちゃんがやってよ。秋子ちゃんにやらせないで」と頼まれたのだ。

だったら自分が立候補すりゃいいじゃんと思ったが、京子ちゃん本人はそんなにピアノが弾けるわけでもなく、べつに自分がやりたいわけでもないらしい。ただ秋子ちゃんにやらせたくないらしい。なんだかよくわからんうちに私はピアノ係に推薦され、秋子ちゃんはいつものごとく立候補した。ピアノパートは1人なので、どちらかに決めなければならない。そこで、クラス全員の前でピアノ演奏を披露しなければならなくなった。な、なんでこんなことに。。

先攻(?)は私だった。京子ちゃんのリクエストでもあったので、「エリーゼのために」を弾いた。まあ簡単な曲だけど、その場ですぐに弾けてみんな知ってる有名曲なのでちょうどいいといえばいい。私は無難に演奏した。そして秋子ちゃんは、その時みんなで歌っていた歌の伴奏を弾いた。で、音楽の先生は、2人とも上手だからどっちがやってもいいねー、と言い、結局多数決で私に決まったのだった。今まで秋子ちゃんが専属でやってきたピアノ係を私が奪った瞬間である!

ピアノが私になり、京子ちゃんは大いに満足していた。まあ私もべつに秋子ちゃんに恨まれるでもなく(本心ではわからんが)、その後は卒業まで2人で手分けして伴奏屋をやっていた。小学校の卒業式の日、式が終わって体育館を出る時に、音楽の先生が「いつもピアノ伴奏ありがとうね」って言ってくれたのをよく覚えている。自ら積極的にやりはじめたわけではないけど、役に立ててたんだなと思って子供心にとても嬉しかった。そして私は「ピアノ弾ける子」として認識されたらしく、以降中学、高校と伴奏屋業を続けることとなった。

そういうわけで、はじめて私が学校でピアノをやった曲、それがドラクエのテーマ曲なのだ。だからこの曲を聞くと、なんだか胸が熱くなるのだ。YouTube でみつけた小学生の合奏のドラクエテーマ曲。たぶんこんなようなんだったとおもう。ピアノ、全然目立たんなw

鼻の穴にパン

太郎が鼻の穴に丸めたパンを突っ込んで取れなくなり、耳鼻科に行くというプチ騒ぎがあった。なんで鼻の穴にパン入れたの? って聞くと、「間違えちゃった」という。間違えようがないだろおい。でもね、母はわかる。入れたかったんだよね。わかる。私も子供の頃、ネコヤナギの花穂を耳に突っ込んで取れなくなって耳鼻科に行ったことがあるのだよ。あのフワフワの花穂を、耳に入れたら気持ちよさそうとか思ったんだろうね。ちなみに父は耳の穴に鉛筆突っ込んで中耳炎になったらしい。そんな両親から生まれたら、そりゃ鼻の穴にパンのひとつも突っ込むわなぁ。

後輩になれなくて

B’z・稲葉浩志の母校に合格→ファンレターで報告したら… 本人からまさかの返事が! – コラム – Jタウンネット 東京都

何を隠そうこの私も高校時代、稲葉さんの後輩になりたくて横浜国大行きたかった。でも数学できなさすぎて諦めた。ついでに中学時代は松本さんの後輩になりたくて錦城高校行きたかった。でも在学中の兄上に来るなと言われて諦めた。

しとしと

なんかここにきて梅雨らしい雨。しとしと、ずっと降ってるかんじの。中学の時、雨の日に部活が休みになるのが嬉しかったことをふとおもいだした。職員室前に部活の伝言板みたいなホワイトボードがあって、そこの女子テニス部の欄に「休み」と書かれると小躍りした思い出。

ブッシュドノエル

子供の頃、ブッシュ・ド・ノエルに憧れていた。家にあった料理本に掲載された、切り株の形のかわいいクリスマスケーキにものすごく惹かれたのだ。昔は母上はケーキとかも作っていたから、クリスマスケーキも手作り。もちろんそれはとてもおいしいんだけど普通の丸いケーキで、木のかたちをしたケーキは特別なものに見えた。食べてみたい気もするけれど、本の写真を眺めるだけでなんとなく満足していた。

昨日、出かけた帰りに母上が我が家に立ち寄った。手にはケーキの箱。開けてみたらば、マジパンのサンタがのっかった切り株の形のケーキだった。憧れのブッシュ・ド・ノエルを食べられて、なんだか幸せなクリスマスイブ。ちなみに本日の我が家のディナーは、アジの干物であったw

RS ウイルス

太郎が RS ウイルスに感染してしまった。RS ウイルスは大人だと風邪のような軽症で済むけれど、乳児に感染すると重症化しやすいらしい。乳はよく飲んでるし熱もなく、わりと元気にしていたので始めそれと気付かず風邪だとおもっていたんだけど、何日も咳が止まらず、そのうち痰が喉にからんで苦しそうにするようになった。数日前の夜に高熱を出し、あわてて救急センターに駆け込んだ。本人わりとケロッとしていたんだけど、検査の結果 RS ウイルス。あわや入院というところだったけど、ギリギリ家で様子を見てもいい程度だったのが不幸中の幸い。とは言え、苦しそうな太郎を見るのは泣けてくるほどに辛かった。今はだいぶ回復してきたので本当によかった。。

子供の頃、兄は喘息持ちで、しばしば発作を起こしてゼーゼーヒーヒーいって夜は眠れず、たいそう苦しそうにしていた。横に寝かせると苦しいから、母上は夜通し幼い兄の上体を支えて背中をさすっていた。我が子の苦しみは自分の苦しみ以上に辛い。あの時の母上はどんなに辛かっただろうとおもうと、なんだか泣けてくる。未だにイマイチ自分が母であるという実感が薄いんだけど、自分にもこんな感情が芽生えるんだなぁ、これが母性ってやつなのかなぁ、とぼんやりおもうなどした。太郎の笑顔が一番嬉しい。

ボンカロアセメン

その昔、小学生だった頃、お兄ちゃんと仲良くピアノのレッスンに通っていた。先生のお宅へは電車を乗り継いでいくんだけど、親に内緒で駅の売店でよくお兄ちゃんが買ってくれたのが、ボンタンアメ、カロリーメイト、アセロラキャンディ、そしてメントスだった。そういう市販のお菓子の類いをあまり買ってもらえなかった当時、ちょっとイケナイことをしているという意識があって、だけどお菓子おいしくて、なんていうか、そういう思い出。

ちなみに行きは駅の売店で上記のお菓子、帰りは江古田銀座商店街で今川焼きとか焼き鳥とか食べてた。ああ、今川焼き食べたい。

武蔵野うどん

中学の時の美術の先生シリーズです。今度の美術の先生は、脱公務員してパスタと釜焼きピッツァのお店をオープンした。中学生当時、「先生の作るパスタ美味いんだぞー。いずれ教師やめてパスタ屋開こうと思ってるんだ。そしたら食べに来いよ」って言っていて、それで本当に開いたもんだから(しかも実行までがかなり早かった)、なんか嬉しかった。もちろん何度も食べに行ったし、すごくおいしかったし、お店には教員時代の同僚である関先生の絵が飾ってあったりして、すごく微笑ましかった。何しろ美術の先生だから、お店の内装なんかも全部自分でやっていて、すごく素敵だった。

その後お店が移転して、ここ数年は引っ越して遠くなってしまったこともあって、なかなか行けていなかった。その間、お店の方もいろいろ迷走していたようで、食べログはじめネット上で情報を探してもどうもイマイチな評判ばかりで、どうなったかな、と気になりつつ、なかなか行く機会を得ないでいた。

ところが今年9月、なぜか突然の方向転換。なんと、うどん屋に転向である。ええ!? う、うどん!?!? 最初は何かの冗談かとおもった。しかしどうやら本気のようである。まあ、パスタとうどん、似てるっちゃ似てるんだけど・・・いやちがうだろ・・・。とにかく先生の気が変わらないうちに、食べに行ってみよう。武蔵野うどんは吉田うどんみたいな太くて硬い系だとのことなので、ちょっと楽しみである。

で、本日。本当は別の予定が入っていたのだが、今朝になって諸事情により急遽延期。コリャ千載一遇のチャンス! てなわけで、行って参りました。
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武蔵野うどんの定番であるらしい、肉汁うどん。うん、太さはそこまでではないけど、しっかり歯応えがあっておいしい! つけ汁はかつおだしの醤油味。かつおの風味がしっかりして、豚肉も柔らかくて甘みがあってとってもおいしい〜。これで並盛りなんだけど、400g あるらしくて超絶ハライッパイになった。ふぅ、ごちそうさまでした。おいしかったー。

先生は、厨房でせっせとうどんを茹でていた。こちらには気づいていなかったので、声をかけたりはしなかったけど。ちょっと年取ったかな。でも、元気そうで安心した。これからもおいしいうどんを作ってください。いや、また気が変わってパスタ屋に戻ってもいいんだよ。どうせなら両方提供とかどうかしらw

他のメニューも試してみたいし、また機会があったら行ってみよう。