高島俊男「漢字と日本人」。たいへんおもしろく読んだ。日本語のことを改めて知ることができた気がする。
日本語は漢字の裏付けがなければ意味が確定しない、文字が言語の実体なのだ。わたしは会話の流れの中で時折パッと聞いて意味のとれない単語が出てくると、「それどういう字?」って聞いたりする。まさに、だ。しかし大抵は前後の文脈から判断して、「その語を耳にした刹那、瞬間的に、その正しい一語の文字が脳中に出現して、相手の発言をあやまりなくとらえる」のである。それも、意識することなくごく自然に。
そう、無意識であるがゆえに、漢字がいかに重要な役割を担っているかに気づかず、漢字を廃止しようという動きがでてきた。しかし明治維新後の日本語というのは西洋語・西洋の概念を翻訳したものが大多数だという。その中で、漢字がなければ(というか漢字に訳された西洋語や西洋の概念がなければ)政治も産業も学術も教育も動かなかったのだ。
漢字はもともと日本語をあらわすための文字ではないから、漢字を使うのは無理がある部分があるけれど、これまでずっと使ってきた以上もう漢字なしには日本語は機能しない、うまくつきあっていくしかないのだ、というのが著者の主張。わたしはわりと漢字の使い方を意識するんだけど、この本読んでその意識を新たにした。
言語というのは、その言語を話す種族の、世界の切りとりかたの体系である。だから話すことばによって世界のありようがことなる。言語は思想そのものなのだ。
言葉を使って考える。
言葉がないと感じることはできても考えられないし、伝えることもできない。
そういう意味でも、言葉は思想そのものなんだと考えるとおもしろいよね。
韓国・朝鮮では、今は原則ハングル文字だけで表記されてますけど、韓国・朝鮮語にも漢字語が相当入ってるんですよね。「カムサハムニダ」の「カムサ」は「感謝」だとか。
なので、「防火」と「放火」がどっちも「パンファ」だったりします。だいたい文脈でわかるのですが、「単体」と「団体」が両方も「タンジェ」だったりするのは、翻訳しててどっちなんだか結構迷います。