中二階

中二階ここんとこジャンルはまったく違うんだけどたまたま外国人作家の著作が続いていたので、なんとなくその流れで積んであった本の中からニコルソン・ベイカー「中二階」を手に取った。

この小説は、一人の男が昼休みを終えてオフィスのある中二階に戻るエスカレータに乗るところからはじまり、下りるところで終わる。その間、彼の思考はめまぐるしく展開され、日常の何気ないことを超ミクロ的に考察している。思考はどんどん枝分かれし脱線に脱線を重ね、それはまたとんでもない長さの注釈となって本文をも浸食する*1。切れた靴ひもにはじまり、牛乳パック、ストロー、ペーパータオル、ポップコーン、耳栓、シャンプー、などなど、日用品とそれをとりまく日常に終始しながらもひとつひとつに物語があり、ところどころニヤリとさせつつ読ませるのだ。普段見落としがちだけど、日常とはなんと楽しいことにあふれているんだろうとおもう*2

*1 この注釈が数ページにわたることもあり、話があちこち飛ぶ上になんどもページを行ったり来たりして、読みはじめはどうも読みにくくて困ったものだ。だけど読み進めるうちにだんだんそれにも慣れてきて、自分のリズムで本文を離れてまた戻って、という動作が出来るようになっていた。お気づきの方がいるかもしれないが、このエントリにおいてこのスタイルをちょっぴり取り入れてみた。

*2 ドラッグストアのレジ係のオネーちゃんが有能で、多少並んでる人数が多くてもレジを捌くスピードが速いので結果早く会計を済ませることができる、というエピソードがあった。ちょうど先日読んだばかりのきのう何食べた? 5巻(この本も、料理が参考になるというだけでなく、日常の幸せをひしひしと感じることができるからほんとうに好きだ)にもこれとまったく同じエピソードが描かれていた。そしてご多分にもれず、わたしにも近所のスーパーにお気に入りのレジのオネーちゃんがいる。彼女のレジ捌きはひときわ秀でている。スピードもさることながら、大量の商品をカゴの中に収めるその整理の仕方が実に合理的で美しいのだ。なので、列の長さや並んでいる客のカゴの中身を鑑みつつ、彼女の列に並ぶことも多い。ある日、彼女のレジで会計を済ませ、袋に商品を詰めて店を出たとき、買ったはずの豆大福を袋に入れた記憶がないことに気づいた。レシートを見ると、たしかにレジは打ってある。袋の中にはやはりない。おかしいな、とおもってレジに戻り、彼女にその旨を伝える。どこかに引っ込んで、しばらくして戻ってきた。手には豆大福。他のお客さんが届けてくれたそうだ。つまり、わたしが袋に入れ忘れていたということだ。大福一つに必死になってる人みたいで(実際必死だったわけだが)、なんとも恥ずかしいことであった。きのう何食べた? において、シロさんの「今時スーパーで買い物するサラリーマンなんか珍しくないし俺のことなんかいちいち覚えていないだろう」という考えとは裏腹に、有能なレジのオバさんは「木曜日の低脂肪乳男」と認識していた(であろう)ことと同様、わたしもよく水曜日に(ポイント5倍デーなのだ)買い物に行くことが多いのだが、いつも作業着であるため、「水曜日の作業着の女」と認識されているんじゃないか、という自意識をもっていた。そしてこの一件で彼女はわたしを「水曜日の作業着の女」から「水曜日の作業着の大福女」と認識したんじゃないか、などというどうでもいい被害妄想にとらわれたりもした。だもんで、彼女の列に並びにくくなってしまった。そろそろ大福のことは忘れてくれているといいのだが。それにしても、ひと月に読んだ本の中でまったく同じエピソードに出会うとは、おもしろいものである。

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