終りの季節 [8月]

8月4日

菩提寺の御施餓鬼法要の前に、朝うちに寄る。父上に久々に会うころすけ曰く、痩せた、頬がこけた。たしかに。そして頬がこけているので、ずいぶんじいさんに見える。祖父が死ぬ直前くらいのかんじに似ている、とふっと思った。

夕方、カッパの写真展に来てくれる。腹水でお腹は出ており、歩き方もヨタヨタしている。だいぶ痩せてしまっているのでカッパの仲間たちに何か言われるかなとおもったが、特に誰も何も言わなかった。初対面の人にはわからない程度なのか、それともただ単に言わなかっただけかはわからないけれど。

8月9日

母上と電話する。昨夜、また寒気がするとかで病院に行ったらしいが、幸い大事には至らず、入院もなし。ただこのあたりから、急速に病状は悪化していく。食欲もなくなり、ほとんど食べない。食欲がないって・・・もうそんなところまで来てしまっているの? 11月のおでんの結婚式、果たして間に合うのだろうか。

そう、妹の結婚式が、11月15日にある。6月に余命宣告された時にも、早めるという話は出た。でも、わたしはどうしても早めるのが嫌だった。そこで父上の命を短くしてしまうような気がして。だから、どうしても11月15日にやってほしかった。結局この日は11月までがんばろう、きっと大丈夫、ということになった。18~19日は家族でキャンプに行くことになっている。大丈夫かな。いや、行こう。行くんだ、絶対。

8月11日

呉服屋さんのイベントで、みんなで浴衣を着て東京湾大華火祭。英二くんは仕事で来られなかったけど、ころすけとかくちゃん(おでんの旦那さん)も交えて花火クルーズ。父上はわりと普段から浴衣を着ているだけあって、上等な着物がとてもよく似合う。痩せてお腹は腹水でで腫れ、口数も少なくせっかくの今半のお弁当にも少ししか手をつけなかったけど、花火は楽しんだ様子だった。この日のクルーズ、ここ数日の急激な体調悪化で行けるかどうか微妙なところだったのだが、みんなで行けて本当によかった。東京湾に咲く大輪の花、美しくもすぐに夜の闇に消えていくのを見て、なんだかひどく切なくなった。花火をじっと見上げて、父は何を思っていたのだろう。その静かな横顔が、やけに印象に残った。

8月13日

検査のため入院。わたしは前日からころすけと2人でツーリングに行っていたので、翌朝湯沢からの帰り、所沢 IC で下りて病院に寄る。8時過ぎに着いた。

個室に入って、ドキッとした。心電図モニタをつながれて、ピッ、ピッ、と、電子音が小さく室内に響いている。父上は寝ているのだが、パジャマのズボンが半分ずり下がって、なんかもう、あと一週間の命の病人といった体なのだ。ふっとそんな印象を受けたもんだから、ひどくショックだった。6月にあと4ヶ月と言われたけど、とてもあと2ヶ月ももつとはおもえないほどに衰弱している。おでんの結婚式まではなんとかもってほしいけど・・・9月に早めたとしても間に合うんだろうか、というくらいの感じだ。どう捉えていいのかわからない。わたしにできることは何なんだろう。父上の今の心の中はどうなんだろう。

そんなことを考えていると、じきに父上が起きた。自力で起き上がれず、体を起こすのを手伝う。こんなに痩せちゃった、と腕を見せる。腹水がたまって苦しく、食べると痛いらしい。「早く水抜いてくんないかな~」と言いながら、ぱんぱんに膨らんだお腹をさする。まるで妊婦のようだ。週末キャンプ行くんだよ、と言ったら、「無理だな〜」と力なく言う。父上が好きで、湯沢に行くといつもお土産に買ってきたわさび茶漬け、食べられないかなとおもって買わなかった(てかノグチで見当たらなかった)んだけど、やっぱり買ってくればよかった、とひどく後悔した。

夜、親戚が呼ばれて全員集まったらしい。もうやばいってことなのか?この日、はじめてころすけの前で泣いた気がする。

8月15日

みんなで墓参りツアーのはずだったが、父上の状態がよくないのでわたしところすけで墓巡りと鎌倉の親戚の家に行く。叔母によれば、昨日は会社の人とかもお見舞いに来ていて、心電図とか見て「これ作れるよなー」「打ち合わせしなきゃ」とか言っていたらしい。こんな状況でも仕事のことを考えている。

夜、弟から電話が入る。英二くんが言うには、ここ数日かそこらだという。は? 嘘でしょ? 数日て・・・いくらなんでも早すぎる。そこで母上に電話をするのだが、同じことを言う。腹水がたまるのは、本当にもう間際らしい。腹水を抜こうにも抜けないそうだ。とにかく明日はバイクで会社に行き、しばらく実家から通うことにする。今わたしにできることなんて、顔を見せることしかない。

8月16日

勤務先の社長に父上のことを話し、休みがちになるかもしれない旨を伝える。お盆休み中ということもあって、休んでいいからお父さんのそばにいてあげなさいと言ってくれる。ありがたい。とりあえず今日の様子を見てから考えますと伝え、終業後バイクで病院へ向かう。

父上は、先日とあまり変わらないように見受けられた。じきに会社の人がお見舞いに来てくれた。仕事の話をしていると、本当にすごく生き生きしている。やっぱり仕事が一番大事なんだろうなぁ。お腹もまあ張ってはいるけど昨日ほどではないらしい。表情もよくて、肌ツヤもよくて、今日はずいぶん元気そうにみえる。自分で歩いてトイレに行ったりもしている。誰だよあと数日とか言ったの。全然大丈夫じゃん!

母と兄と3人で、晩ごはんに駅で買ってきたお寿司を食べていると、父上も食べたそうにしている。「食べる?」と聞くと食べると言って、2つくらい食べた。あとぶどうも食べていた。食欲があることに安心する。

英二くんは21時半頃、おでんは22時半頃到着。そして全員で家族会議。おもに相続に関することで、かなり事務的な話である。てか、お金のこと全然ちゃんとしてないじゃん。今まで何してたのよってなもんで。こりゃまだまだ死んでもらうわけにはいきませんねー。おでんの結婚式は9月初めくらいにしようということで調整することになった。どうか、どうかもちこたえてほしい。

8月18日

本当は1泊2日でキャンプに行く予定だったのだが、とても無理だというので家の庭でバーベキューをすることになった。そのために、今夜から外泊となる。みんなが揃って、夜ごはんは手巻き寿司。父上は腹水で張ったお腹が苦しいらしくあまり手をつけないが、少しだけ食べていた。水と、ビールも少し飲んでいた。食後、父上は先に寝る。その後みんなでいろいろ話す。相続税のこととか。2時過ぎくらいになり、みんな寝るといって2階に行く。わたしは少し後になってお風呂に入ろうとパジャマを取りに2階に行ったら、みんな父上の寝室に集まっていたのでわたしもそこに加わった。そこでもまたいろいろ話した。膵臓の機能からはじまって、人間の身体の様々なことに話は及ぶ。結論は、有酸素運動大事。ちょう大事。運動習慣つけましょう。

8月19日

朝からバーベキューの買い出しに出かける。父上に飯盒と薪でごはんを炊いてもらいたかったが、炭はあるものの薪が調達できず、そもそも父上に準備をする気力は残っていなかった。父上の炊くごはんは、3月のキャンプが最後になってしまったか。本当においしいごはんだった。もう一度、いやもっともっと食べたかったな。

段取りが悪いながらもなんとか昼からバーベキュースタート。父上はさすがにあまり食べていなかった。あっとゆーまにお腹いっぱいになってしまい、例によって焼きそばまで届かず、無念。途中、お見舞いに来てくれた人がいたので父上は部屋に戻り、そのまま昼寝に入った。ころすけに少々庭の植木の伐採を手伝わせた後(我が家は全員背が低いため、長身の彼はたいへん重宝されるのだ)、我々も昼寝。夕方になって起き出し、昼間食べられなかった焼きそばで夜ごはんとなる。かくちゃんも仕事が終わってから合流し、総勢 8名で茶の間にひしめく。今まで家族 6人が揃っても「あれ、こんなもんだったっけ? 少なくね?」と感じることが多かったのだが、そこに婿殿×2が加わるとだいぶ賑やかになってとても楽しい。家族が増えるっていいな。これに嫁さん×2も加われば、國弘家は完全体となるだろう。兄よ弟よ、健闘を祈るw

8月21日

バイクが入院中で実家に帰れず、母に電話する。今日は父の飲み仲間が病院に来てくれて、いい顔をしていたそうだ。病気のことは、会社の代表取締役という立場的なこともあり、本人の強い希望で周囲にはずっと伏せていたのだが、ここにきてついに友人たちに知らせている模様。でも調子はよさそうで、安心する。

8月22日

19時前に病院到着。夕食中のようだが、食べているのはオレンジゼリーだけ。病院食が美味しくなく、食べたくないらしい。体調はよさそうに見える。顔色もよく、一時期よりも頬がふっくら(とまではいかないがいくぶん回復)したような気がする。が、酸素吸入の管を鼻に入れている。そうしないと苦しいところまできているのか。

しばらくしてベッドから立ち上がり、自分で歩いてトイレに行く。尿は出るが、便はもうずいぶん出ていないらしい。身体の機能がだめになってきているということなのだろうか。また今朝、医師から「話がある」と言われていたらしい。その話というのは何だったのかと聞いても、今ひとつはっきりしない。お腹がぱんぱんに膨れているが、どうも水は溜まっていないらしい。とすると、膵臓が炎症を起こして腫れているのか、ガスが溜まっているのか、その両方か。なんだかよくわからない。

20時前、母の友人と呉服屋さんがお見舞いに来てくれる。父上もいただいたお菓子を少し食べた。喉が渇くようで、お茶はよく飲んでいた。明日は経理士さんが来ることになっていて、小さな目標のひとつであった。少しずつ、近くの小さな目標を作りながら生きている。大きな目標は、9月19日のおでんの結婚式だ。

帰宅後、「余命一ヶ月の花嫁」を見た。部位や年齢は違えども癌の末期、父上がこれからたどるであろうプロセスが描かれているということで。その病気の経過はまあそれとして、この子は何がしたいとか、助けて、とか、心の内を家族や恋人や友人に打ち明けている。だから、周囲の人々も精一杯のことをしてあげている。恋人が、「してあげられることは全部やった」と言い切っているのがすごいとおもった。父上は、どうしたい、とか、何も語ってはくれない。残された少ない時間の中で、わたしたちは何ができるのだろうか。そして父上の本心を聞くことができるのだろうか。

8月24日

19時前に病院到着。様子は2日前と変わらないかんじだが、先ほどトイレに行く際によろけて転びそうになったらしく、ベッドのちょっとした動きでセンサーが反応するようになり、頻繁にナースコールが勝手に鳴る。バッハのメヌエット(自分で押した時)とショパンのノクターン(自動で反応した時)。この音、記憶に残るんだろうな、などとぼんやり思った。

それにしても、戸塚のおばあちゃんにそっくりだ。顔とか髪の毛のかんじとかもそうだし、仕草のひとつひとつがまったく同じである。おじいちゃんにも似てるとおもったけど、最近はおばあちゃんのほうがよく似ていると感じる。記憶が新しいからより強く感じるのだろうか。本当に似ている。

8月25日

朝8時前くらいに、母上と病院へ。病院食がおいしくないというので、家からごはんをタッパーに入れて持って行って、お茶漬けにして食べている。けっこうしっかり食べていた。病院で出されたみそ汁も飲んだ。

医師の回診。母上が呼び出されて病室の外で話をしている。母上が戻ってくると父上は「なんだって?」と問う。母上は、「ちゃんと食べなきゃだめだよって。元気になって会社行くんでしょ。会社が心配なんだから」と言う。父上特に返事なし。後で聞けば、今後の経過についてだった。ネットとかで調べたとおりだけど、これからさらに呼吸が苦しくなり、また痛みが増してくる。耐え切れないほどになるとモルヒネを投与することになり、そうなると次第に意識がなくなる、と。それがいつぐらいになるのか・・・。おでんの結婚式まではなんとかもってほしい。お願い。

8月27日

病室に入って、愕然とする。ちょうど看護師さんがトイレの世話をしてくれているところだったのだが、もう、凄まじい衰えよう。まる2日あいただけで、こんなにも衰えてしまうのか。聞けば、昨日くらいまでは今までと変わらないかんじだったらしい。が、今朝だいぶ衰え、それでも朝ごはんはそれなりに食べたらしいのだが、半日でさらに一気に衰えてしまったようだ。目はとろんとして、半分寝ているみたい。そうでない時は目が泳いでいでぼんやりしている。薬によるものなのだろうか。まだモルヒネの投与はしていないそうだけど。酸素吸入器は鼻だけのじゃなくて口から全体を覆うものになり、紙おむつになって、甚平だと脱ぎ着が大変になってきたので病衣になって、ますます衰え感。酸素吸入器をなんか横にしたがってごにょごにょやったりして、ちょっとおかしい。痴呆のような感じも見受けられる。薬によるものなのか、脳まで癌細胞にやられているのかはよくわからないけれど。

確実に、死に近づいている。いや、もう、すぐそこのような。今が体調の波の底で、また回復してくれたりしないだろうか。なんかもう、そんな期待すら抱けないような、ただただ弱って死を待つだけのように感じられる。会話もかみあわず、父上が今何を考えているのか、まったくわからない。父上の本心を、このまま聞けないまま終わってしまうのだろうか。なんて、なんて悲しいんだろう。

20時過ぎ、父の仕事仲間であり友人でもある2人が来る。あまりの衰弱っぷりに、ショックを隠せない様子であった。奇跡を信じる、みたいなことを言うんだけど、もはやそんな段階ではないのは明白で、気休めにもならず、誰も何も反応できなかった。母上は、「今日車で走ってて、スカGみたいなのがいて、あーいいなって、ソアラとか、ああゆう2ドアのスポーツカーに乗ってどっか行ったりしたかったな」と話しながら、涙ぐんだ。母上がこの父上のことで涙を浮かべるのを、はじめて見た気がする。父上のこともそうだけど、母上のことも支えてやらなきゃいけないなと心からおもう。明日はまた親戚一同がやってくるらしい。

8月28日

朝、病院に寄ってから出勤しようとおもっていたが、時間がなくて行けず。母上にメールで「父上どう?」と聞いたら、「昨日よりも衰えたかな」との返信。

昼休み、母から電話。朝方、父上が正気を取り戻して、「家に帰りたい」と言ったそうだ。ただ、家に帰るにしても、誰かしらつきっきりで介護しなければいけないし、トイレの世話やらなんやら、素人で大丈夫なのかという不安もある。だけど、父上の意思を尊重してあげたい。会社を休むことはできると伝え、後の判断は任せる。

夜、家族会議のため集合。19時過ぎに病院に着くと、親戚が来ていた。じきに帰る。友人たちやかくちゃんも来てくれている。なぜか今日は夕食がちゃんとした食事が出されていた。ほとんど手を付けていないが、おかゆを少しだけ食べたらしい。浴衣から心電図(ナースステーションでモニタされてるらしい)のコードが出ている。そこから覗く、肋骨。もう、骨と皮だけになってしまっている。微熱があって、汗をかなりかいている。身体の中で癌細胞と闘っているのだろう。

父上が立とうとする。トイレに行きたいらしい。「そのまましていいんだよ」と母上が言ってもきかない。母上はオムツになったのがかなりショックだったようで、頑なに「オムツしてるから」とは言わなかった。ベッドで揉めているとまた自動で反応したナースコールで看護師さんが来たので、説明してもらったらわかったようだ。だけど、次にまた尿意をもよおすと、やっぱりトイレに立とうとするのだった。まだその感覚は崩壊していないのだ。

20時頃、呉服屋さんが来る。おでんの結婚式の衣装ができたので、もってきてくれたのだ。ちょっと羽織って父上に見せようということだったが、病院のカンファレンス室を借りて簡単に着付けてくれた。すごくすごく素敵な着物。こんな立派な衣装が着られるのも、全部父上のおかげなんだよ。絶対本番で見なきゃ! 三週間後、9月19日が、永遠に来ないんじゃないかってくらい遠く感じる。でも、どうか、どうかもちこたえてほしい・・・。ただただ祈るのみだ。

座薬を入れる時間になったので、一旦みんな退室。エレベーターホールで今日の本題の会議。自宅に帰るかどうかということなのだが、やはり難しいのではないか、ということになる。本人の意思を尊重したい、できることならそうしたい。だけど実際問題、運ぶのだって相当難しいだろうし、ベッドのことや介護のことも難しい。他の人間の都合になってしまうんだけど、どうしても仕方がない。

8月29日

昼休み母と電話。状態は落ち着いているらしい。朝ごはんもけっこう食べたようだ。今朝、医師に病院でお願いする、という話をしたらしいんだけど、でもやっぱ父上は帰りたいと言うらしい。なので、とりあえず介護ベッドとかのことを調べてみようか、ということになった。

だいぶ家を空けているのでいろいろ気になることもあるし、日中元気そうだったというので、今日はわたしは横浜の自宅に帰ることにした。21時過ぎ、夕食を食べているところへおでんから電話。ギクリとするが、彼女の声はそんなに深刻そうではない。けれど、父上の状態があまり芳しくない、できればすぐに来てほしいとのことだった。わたしはたった今茹でたばかりのとうもろこしをカバンに突っ込み、ろくに片付けや準備もしないままに急いで病院へ向かう。

家を出るとき、ころすけに一緒に行けないかと言うと、「そんなにやばいの?」と。わからないけど、とにかく一緒に来て欲しかった。でも戸締りや食事の途中だったからその片付けもしなければならないし、その他諸々の準備もあるからとりあえずわたしは先に出た方がいいということで、駅までバイクで送ってもらう。CBR の後部座席でころすけにしがみつきながら、泣き出しそうになるのを必死でこらえた。夜の風がやけに涼しく感じられた。空には月が明るく光っていた。ああ、満月が近い。

駅に着くとすぐに電車が来た。乗り込んで、ころすけにメールを打つ。今日かもしれないし、明日かもしれないし、また持ち直すかもしれない、こればっかりはわからない。ただ、もしかしたら最後になるかもしれないから、あなたにも父上に会ってもらいたい。そう伝えた。電車の中で、いろんなことに思いを馳せては泣きそうになるのをこらえるけれど、涙が溢れて止まらない。バッグの中からは、場違いみたいに、とうもろこしの甘いにおいが漂っていた。

23時半に病院到着。母上とおでんがいて、病室は静かな雰囲気であった。お兄ちゃんは会社で用事をこなし、英二くんは今日は仕事で来られない。父上は、薬が効いてるようで眠っていた。落ち着いているようなので一安心。だけど、朝から痰が出始め、呼吸が苦しくなるので痰の吸引をしていた。その吸引が、見ているこちらまで辛くなるほどにかなり苦しいらしく、体力を消耗している様子。

24時半、梨ととうもろこし(生)を持って、ころすけ到着。朦朧としていてもうわからないけれど、とにかく会えてよかった。みんなでわたしが持ってきた茹でとうもろこしを食べた。ころ実家にいただいた、北海道から送られてきたもぎたてとうもろこし。すごく甘くておいしかった。じきに兄も会社から戻り、今日はみんなで病室に泊まる。そして、やはり家に帰してあげようという方向で話を進めることになった。なんとなく仮眠しながら、夜が明ける。5時すぎにころすけは横浜に帰る。この日半休を取ったので、仮眠をとって午後から出社するとのこと。ありがとうね。

8月30日

今日は会社を休むことにした。梨とせんべいで朝食にならない朝食をとり、ずっと病室にいる。9時頃、医師が回診にやってくる。主治医の先生が今日から札幌で学会のため、今日は代理の先生。なんだか生気がない人だ。退院したい旨を伝えると、いま酸素吸入や痰の吸引をしているけれど、それがなくなると酸素が足りなくなり、じきにだめになるだろう。それでもいいというのなら、引き止めはしない、と。しかし、このまま病院にいても数日延びるとかそんなもんだろう。だったら、本人の意志を尊重して、家に帰してやりたい。ただ、本当に苦しそうなので、迷いもある。このまま病院で、モルヒネをやって楽にしてもらったほうがいいのではないか。家に運ぶだけでも相当体力を消耗するだろうし、家までもつかどうか・・・。だけど、どんな選択をしても、どこかで後悔は残るだろうし、やはり帰してあげよう、と決めた。死にに帰るようなものだけど、本人がそうしたいと言うのだから、きっとそれでいいのだ。英二くんが来たら、みんなで一緒におうちに帰ろう。「よく決心されましたね。國弘さん、愛されてますね」と、看護師さんが言った。

父上は明け方からずっと眠れないようで、ぼんやりしているが起きている。座薬が効いているのか痛みは訴えないが、呼吸が苦しい様子。時々看護師さんが痰を吸引しにきてくれるのだが、とにかくこれを嫌がる。ある時は、この衰弱しきった病人のどこにこんな力が残されているのか、というくらいに暴れて、全力でこれを拒んだ。最後の方はそんな気力もなくなってしまったのか、そこまで抵抗することもなくなっていたが、それでもかなり苦しそうであった。

なんだか左腕がびしょびしょだとおもったら、点滴の針が抜けて漏れていた。さっき暴れた時にとれてしまったのか。また、高熱で汗をかいているため心電図のモニタのパッチがとれてしまうので、よく看護師さんがとりかえにきていた。

昼過ぎ、毎日顔を出してくれている父の仕事仲間が来てくれる。父と一緒にやっているプロジェクトのことで、ペルー大使館でのプレゼンをしてきたそうだ。この時、わりと意識がはっきりして、彼の名前を呼んだり、「プレゼン成功しましたよ」と言うと、「やったな!」と言ったりした。意識があって、きちんと意思疎通がなされてはっきりと喋ったのは、これが最後だった。彼の手を摑んでずっと離さなかった。やはり、仕事の話をしているときがいちばん元気になる。

17時頃、会社を早退した弟が到着。そしてじきに、父上の会社の人がくる。その人は創立当時からの社員だから、実に40年、わたしたちなんかよりずっと長い間、苦楽を共にしてきたわけだ。そしてもう1人お見舞いに来てくれるという人がまだ到着しないということで、とりあえず待つので食糧調達。これが最後の晩餐になるのだろうか。例によって寿司やらパンやら小龍包やら。ここ半月ほどで、3年分くらい寿司を食べた気がする。京樽にはずいぶんお世話になった。

18時半頃、父の友人到着。彼は、「もっと早く知らせてくれれば」とか「元気になると信じてる」とか言っていた。わたしたちはもう、死を覚悟しているのだけれど。別れがたいようでずるずると 20時頃までいたが、そろそろ家に帰ろうかということになる。

そしていよいよ帰宅の段取り。死亡時に警察を呼ばないといけないとか、なんかいろいろ面倒なことになるため、退院ではなく外泊という扱いで病院を出ることになった。まず母・兄・私が家に戻り、父上の寝床を作る。布団を積み上げて、少し起き上がれるようにしてある。エアコンもガンガン入れた。準備が終わって、わたしはバイクで、母と兄は車で、水のいらないシャンプー(もうずいぶんお風呂に入っていないので髪がゴワゴワなのだ)だとか、そんなちょっとした買い物をしてから病院へ戻る。

看護師さんがいろいろ画策してくれて(この退院劇に際し、ものすごく気にかけてくれて、わたしたちの力になってくれた。ありがたいことだ)、まず正面玄関までストレッチャーで運び、そこからシーツで数人で自家用車に運び込むことになった。介護タクシー(なるものがあるというのも看護師さんが教えてくれた)という選択肢もあったが、やはり父上が欲しがって買った、新車のプリウスに乗せてあげようということで。運び込みがどうなることかとおもったが、4人の兄弟とかくちゃんで、みんなでやったら意外とスムーズに乗車させることができた。そして酸素吸入器をはずす。大丈夫か? なんとか大丈夫か。車が出発し、わたしはバイクで後を追う。そして無事に家に到着した。よかった、家までちゃんともった。寝室は2階なのだが、2階に上げるのも思ったよりスムーズにできた。シーツ作戦大成功だ。看護師さんありがとう。

さっき作った寝床に横たえる。なかなかいいじゃない。あるものでなんとかなるもんだ。苦しそうではあるが、なんとか大丈夫そう。さっき買ったシャンプーで髪を洗ってサッパリ。よかったねぇ。わたしはこの時もうすさまじく眠くて、とうもろこしを食べたら父上の横で寝てしまった。1時間ほど寝たのか、頭はぼんやりしている。父は苦しそうながらもなんとなく落ち着いている。ので、風呂に入ることにする。

8月31日

シャワーを浴びて髪を洗って流しきったかな、というところで母上がやってくる。ともちゃん、だめだよ! と。あわててバスタオル1枚で階段を駆け上がるも、父はもうすでに全ての動きが止まっていた。あれ、寝てるのかな? というかんじだけれど、たしかに息をしていない。ああああああ夜に爪切ってごめんなさい。。。。。。あああああああ。。。。まあ、気を取り直してみんなで記念撮影。自分の家で、自分の布団で、家族に囲まれて、苦しいとはいえもがき苦しむようなこともなく、最後の最後は眠るように静かに息を引き取れたので、きっとこれでよかったんだとおもう。本当に眠っているかのようで、死んだという実感がないけれど、少しずつ父の身体が冷たくなっていくのがわかった。苦しみから解放されて穏やかに眠る顔を見て、悲しいというよりはなんだかホッとするような、そんな不思議な気分だった。

救急車を呼んで、病院に戻る。2012年8月31日1時49分、当直の医師による死亡確認。死亡診断書の死因の欄には、「膵頭部癌」とあった。看護師さんは、「國弘さんにとって、これがいちばんよかったんだとおもいます。幸せだったとおもいます」と言ってくれた。看護師さん本当にお世話になりました。ありがとうございます。そして遺体の処置をして、身支度を整えてくれた。

父上は互助会に入っていたそうなので、その葬儀屋に連絡をする。葬儀屋を待つ間、この数日に撮りためた父上の写真をみんなで見ていた。その中にかなり笑える写真が何枚かあって、父が死んだその数時間後に本人をネタに爆笑する一家。暗い雰囲気になるよりはいいとはおもうけど、、どうなんだ(笑)。3時過ぎに葬儀屋が来て話をし、4時頃に葬儀屋の車に父上を乗せて帰宅。さっきまで寝ていた布団に、また戻ってきた。ドライアイスなどの処置をして、葬儀屋は帰っていった。他の家族もそれぞれ眠る。わたしは一人、なんとなく眠れずにぼんやりしていた。じきに窓の外が明るくなってくる。夜が明ける。長い長い夜だった。

5時半くらいにようやく寝たものの、なんだかんだで8時半くらいには起きた。会社に父が亡くなったことと、今日も休む旨の電話を入れる。母と兄は会社に行き、弟は一度自宅に戻る。妹夫婦も一度帰るとのことで、わたしが一人で留守番をする。午後に親戚が来て、夕方家族がそれぞれ戻ってくる。

19時に葬儀屋との打ち合わせ。母の友人や父の友人が来てくれたりが重なってしまってメチャクチャになってしまったが、なんとか2時間半にわたる打ち合わせ終了。ごはんの支度をする余裕もないので、外に食事に出る。骨壷問題で変な雰囲気になってしまったが、これは後に解決。わたしはこの日いったん横浜の自宅に帰るつもりだったが、結局そのまま寝てしまった。

終りの季節 [8月]」への1件のフィードバック

  1. by Danjun at

    日記を付けていたのかな。
    ここにこうして残せることがとても羨ましい。
    自分の嫁さんが亡くなるまでの2週間を思い出しながら読んでいました。
    記憶は一部の鮮明な部分を残して無情にも消え去ります。
    それがいいのか悪いのかはわからないけど、できれば残しておきたかった記憶。
    もう自分にはこんな風に書けません。
    忘れないうちに書き綴って正解。

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