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なりひら

業平橋駅がとうきょうスカイツリー駅って・・・。ああ、嘆かわしい。情けないよあたしゃ。

てか、百歩譲って東京スカイツリー駅になるのは許容するとする。なんで「東京」スカイツリーでなくて「とうきょう」スカイツリーなんだ。なんで「年金」特別便でなくて「ねんきん」特別便なんだ。この手のなんでもかんでもひらがなにする風潮ほんっとやめてほしい。もちろんひらがな表記が相応しい場合もあるけど、ここは明らかに違うだろ。親しみやすさ? 幼稚さと気色悪さしか感じないっての。在原業平も嘆いていることよ。嗚呼。

・・・とかなんとか言いつつ、記事タイトルが「なりひら」。
ありわら(笑)。

東武伊勢崎線業平橋駅、「とうきょうスカイツリー」駅に駅名改称

幸せのかどっこ

末広町。蔵前橋通りと中央通りの交わる外神田5丁目の交差点。ここに、わたくしの愛してやまないたい焼き屋がある。ちんまり隊の片割れはその場所を、「幸せのかどっこ」と呼んだ。幸せのかどっこ。ああ、なんて甘美な響きだろう!「幸せのかどっこ」とこのブログに記しておきたくて、今日はこれを書いている。

で、わたし、たい焼きも大好きだし、今川焼きも大好きなのね。わたくしの愛してやまない今川焼き屋、ここも団子坂下の交差点、かどっこにある。この今川焼き屋はさらにヤバくて、なんと向かいのかどっこにミスドがあるのである。ドーナツ100円セールなどやっていようものなら、いけないとわかってるのについつい両ほ(ry

なんだろう、わたしを誘惑する甘いものたちは、いつもかどっこにある。そして今日もわたしは、幸せのかどっこにフラフラと吸い寄せられていくのであった。

ゲリラ豪雨

ここ数年マスコミなどで広く用いられるようになって一般に浸透した感のある、「ゲリラ雷雨」や「ゲリラ豪雨」という言葉が嫌いである。すごく下品な響きだ。

つまりは「局地的大雨」でしょ。ただの夕立にも馬鹿の一つ覚えみたいにゲリラ豪雨。「夕立」には風情も感じられるけど、「ゲリラ豪雨」ってどうなのよ。

もとより、雨にまつわる日本語って美しいものが多い気がする。時雨、五月雨、秋雨、涙雨、氷雨、驟雨、雨だれ、等々。なのに、「ゲリラ豪雨」。品性の欠片もない。誰が使いはじめたんだろうこの言葉。ほんと嫌い。

しかしその局地的大雨そのものはとても好きで、そんな日の東京アメッシュは見てるだけでテンション上がる。雨雲くるーー!!ってね。最近ないけど。

偽善

子供の頃、ガールスカウトに入っていた。老人ホームでボランティアをしたり、赤い羽根の募金をしたりといういかにも社会貢献ですみたいな活動もしていたけど、キャンプとか行ったりして(いちおう野外活動・訓練の一環なんだろうけど)遊んだりもしていた。同年代の子たち、お姉さんな人たち、小さな子たち、おばさんたち、といろんな年代の人と関わるいい機会だったようにおもう。

ある日曜日、いつものように制服を着て、待ち合わせのために駅で数人で集まっていたところ、突然通りすがりのおっさんに「偽善者!」と怒鳴りつけられた。小学生だったわたしは「ギゼンシャ」の意味がわからず、他の子たちもリーダー(大人)に「ギゼンシャって何?」と聞いたりしていた。大人たちは「気にするな」と言っていた。意味はわからないけど、罵られていることはよくわかった。「ギゼンシャ」という言葉の語感が、悪い意味ですごく印象に残った。

・・・とまあそれだけの話なんだけど、ここんとこ「偽善」って言葉を目にするようになって、ふと思い出した。何を以て偽善なのかよくわからないけど、何にしても嫌な言葉だ。その言葉じたいが。

呼称

某氏の tweet より。

「東日本大震災」という呼称も範囲があまりに漠然としすぎて好きになれない。「東日本:=JR東日本管内」のつもりか? NHKの「東北関東大震災」の方がまだ妥当と思う。まあ好みの問題か。マスコミが勝手に付けた名称が気に入らないというだけな気もしてくるがww どうでもいいっすねはい

どうでもいいけど、果てしなく同感。そしてこーゆうどうでもいいことにこだわる性質、やっぱ血を分けてるよなぁ。てかそろそろ地震以外のこと書きたいんだけど他に書くことない。なんかだめだね。意味もなく気分が沈んでしまって。はぁ。

オンネトー

突然あたまにある単語がぽーんと浮かんで、あれなんだっけなんだっけ○○ってなんだっけぬおおおおお思い出せんなんだっけなんだっけ、って一日中悩むことがかつてはあったものだけど、今は Google 先生にお尋ねすれば一発だから、便利な世の中になったもんだなぁとおもう反面、ちょっぴり味気ないなぁとおもったりもする。

で今日あたまに浮かんだのは「オンネトー」。
なんか「オンネトーの戦い」とかそんなかんじかとおもったんだけど、じぇんじぇん違いました。

漢字と日本人

漢字と日本人高島俊男「漢字と日本人」。たいへんおもしろく読んだ。日本語のことを改めて知ることができた気がする。

日本語は漢字の裏付けがなければ意味が確定しない、文字が言語の実体なのだ。わたしは会話の流れの中で時折パッと聞いて意味のとれない単語が出てくると、「それどういう字?」って聞いたりする。まさに、だ。しかし大抵は前後の文脈から判断して、「その語を耳にした刹那、瞬間的に、その正しい一語の文字が脳中に出現して、相手の発言をあやまりなくとらえる」のである。それも、意識することなくごく自然に。

そう、無意識であるがゆえに、漢字がいかに重要な役割を担っているかに気づかず、漢字を廃止しようという動きがでてきた。しかし明治維新後の日本語というのは西洋語・西洋の概念を翻訳したものが大多数だという。その中で、漢字がなければ(というか漢字に訳された西洋語や西洋の概念がなければ)政治も産業も学術も教育も動かなかったのだ。

漢字はもともと日本語をあらわすための文字ではないから、漢字を使うのは無理がある部分があるけれど、これまでずっと使ってきた以上もう漢字なしには日本語は機能しない、うまくつきあっていくしかないのだ、というのが著者の主張。わたしはわりと漢字の使い方を意識するんだけど、この本読んでその意識を新たにした。

言語というのは、その言語を話す種族の、世界の切りとりかたの体系である。だから話すことばによって世界のありようがことなる。言語は思想そのものなのだ。