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三回忌

父上三回忌。今日が命日で、ちょうど日曜日なので法事もできた。まる 2年経ったとか・・・ホント早いなぁ。太郎、抱かせてあげたかったな。母上は孫ができること喜んでるんだかどうなんだかイマイチよくわからんのだけどw、父上が生きてたらどうだったのかなぁ、とかちょっとおもう。わたしも母方の祖父は生まれる前に死んじゃってたから、おじいちゃんて父方の祖父だけなんだけど、太郎も同じになるんだなぁ、とか。なんかいろいろおもう。弟は「未だに父上が死んだっていう実感がない、死んだってことに対する感慨もない」って言ってたけど、それもなんかすごいわかる。人が死ぬこと、そして生まれること、いろいろ考える父上三回忌。今日もいい天気。

一周忌

1年という月日はほんとうにあっという間で、花火を見上げる静かな横顔とか、庭での BBQ で出てきたやけにデカいおいなりさんとか、CBR の後部座席で泣きそうになりながら見た月とか、場違いみたいにバッグの中から漂うとうもろこしの甘いにおいとか、折らずに巻きつけたからすんごい幅広だったおでんの着物の帯とか、鳴り響くナースコールの音とか、やたらと食べた京樽のお寿司とか、オーバーベッドテーブルに置かれたトランジスタ技術とか、汗でぐっしょり濡れた浴衣のしわとか、一緒にスポーツカーに乗りたかったと言いながら母が目に滲ませた涙とか、病室のイスの上に転がってるヘルメットとか、そういういろんな出来事の断片が、ついこの間のことのように鮮明に頭の中に蘇る。

未だに父上が死んだことにイマイチ実感がないというか、みんなが集まった時にいなくても、ただ今ここにいないだけで、ちゃんとどこかにいるかんじがしてならない。そして、ふとした時にその口癖だとか、仕草だとか、好きだったものとか、そういうのを思い出して、寂しいっていうか、それよりは切ない、っていうのに近いような、とにかくなんか言葉にできない感情をおぼえるのだ。父の死を受け入れるとか、乗り越えるとか、なんかそういう次元じゃなくて、なんなんだろうな・・・文章にしづらいんだけど。とにかく父上は、たぶんいつもすぐ側にいてくれてるんだろなとおもう。だからなんか、安心感みたいのがある。変な話だけど。

ずっと雨予報だったのに一転して快晴の本日は、みんなでお墓参りに。
父上、みんな元気にやってるよ。

ふたつの法事

8月はどうしてもお寺は忙しいらしく、少し早いけど父上の一周忌とおばあちゃんの七回忌の法要が今日行われた。このふたつをいっぺんにやることになるなんて、おばあちゃんが死んだ時は予想だにしなかったけど。
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今日ってレイハラカミの三回忌でもあるのよね。
なんつーか・・・早いよな・・・・・・

四十九日

昨日読み始めた小説の冒頭にヤナーチェクのシンフォニエッタが出てきたのだが、今朝の NHK のラジオでそれが流れていた。

最近、一緒に住む人の影響でラジオをよく聞くようになった。彼は FM ヨコハマばかり聞いているようだが、わたしは専ら NHK FM である。朝聴く音楽といえばやっぱりバロックがいちばんしっくりくるけど、それは「あさのバロック」(今は「古楽の楽しみ」という番組名に変わっているようだ)の功績が極めて大きいようにおもう。実家では昔から母上が毎日聴いているのだ。

まあそんなわけで、法事は先日済ませたけど今日が正式な父上の四十九日である。父上よ、リンゴマークの帽子かぶって、ジョブズに会えたかい?

68歳

今日は父上の誕生日。
68歳、になるはずだった。
病気が発覚した時、「誕生日までもつか」なんて言うもんだから、ハァ? な~にを言ってんだ!? とおもったものだけど。
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リセット

失恋した時にお父さんとドライブしてしかもそれを相談してくれるなんて、あ・り・え・ま・せ・ん!
toyota.jp マークX | TV-CF
・・・というのは友人の弁でありますが、わたくしもそう思いますw

でも、そういえばわたし数年前、朝父上と車で途中まで一緒に行ってたよなぁ。父上は車で通勤していたから、途中まで乗っけてってもらって、地下鉄赤塚で下ろしてもらってたっけ。朝の車の中で、ラジオ聞きながら、父上と2人で何を話していたかなんて全く覚えていないんだけど、でも今になってみればあれはいいコミュニケーションになってたんだろうなぁ、なんておもうのだ。
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終りの季節 [9月]

9月1日

4時前に目が覚める。ああ、やっぱり寝ちゃった。家に帰らなきゃ。身支度をしているところへ母上が起きてきて、「帰っちゃうの? 湯灌見ていかないの?」と言う。今日は午前中、遺体を洗う湯灌があるのだ。べつに見なくてもいいかなと思っていたのだが、見ていかないのかと言われると見なきゃいけない気がしてくる。家のことも気がかりだったが、やはり見ていくことにした。

人の出入りが多くなるので、家を掃除する。この家は物が多すぎていけない。9時半頃にやってきた叔父と叔母にまで掃除を手伝わせていて笑けた。玄関が信じられないくらいきれいになった。物がないって素晴らしい。

10時前、業者が来て大きな浴槽を父上の寝ている部屋に運び込み、準備を始める。湯灌の儀式は、故人の身体を洗い清めるだけでなく、現世での悩みや煩悩を洗い落とす意味があるという。なんだ、ただ洗うだけだとおもっていたら、こんなちゃんとした儀式だったのか。帰っちゃうとこだったよ、帰らなくてよかった。身体を洗って、髪も洗って、さっぱりきれいになった。髭は死んでも伸びるそうで、髭も剃った。その後、死装束を着せる。山葵色の着物。やはり和服がよく似合う。みんなで足袋をはかせたりした。わたしは脚絆をつけた。

湯灌が終わり、ちょうど親戚も来ているので供花とか諸々の打ち合わせ。それが終わる頃に、会社の人が来て、午後は母方の親戚が来てくれた。ごはんを作る暇もなく、外に食べに出ることもできずにいたのだが、この親戚がお寿司を買ってきてくれて昼食にありつくことができた。5月に祖母が亡くなった親戚だから、この葬式前の慌ただしい感じがよくわかっているのだろう。感謝である。

時を同じくして、父の友人が父の頼んでいた骨壷を持って来る。イケてる骨壷! こんなの見ちゃうとそこらへんの骨壷なんかショボくて嫌だ。父上がこだわったのがものすごくよくわかる。頼んでいた作家さんの作品は葬儀にはギリギリで間に合わないので、出来上がったらその中から好きなものを選ぶことになった。

遺影に使う写真を選ぶ。前々からみんながいいと言っていた写真があったのだが、小さなキャンバスに印刷されており画質が悪く使えそうにない。撮ってくれた人にも聞いてみたが、どうしても元のデータが見つからなかった。それで、わたしが撮った別の写真を使うことになった。全会一致というわけではないのでちょっと残念だけど、それでもわたしとしてはとても嬉しい。

客が引いて、すこし休憩したら、大掃除を始める。物が多すぎるのだこの家は。とにかく物を捨てまくれ!! とやっていたら、母上がしょぼくれてしまい、またも不穏な空気に。。母上の気持ちを考えてあげなければいけないな。

夜、久しぶりに家で母上のごはん。ここのところ出来合いのものや外食ばかりになってしまっていたけれど、やはり母上のごはんがいちばんおいしい。そして今度こそ横浜に帰る。途中少し雨に降られたりしたが、環八空いてて1時間半もしないで着いた。数日ぶりの我が家。まだまだ落ち着かないけれど、とりあえずホッっとした。家についてじき、土砂降りの雨が降ってきた。

9月2日

葬儀に出席できないため、ころ実家と妹さん家族がお線香をあげに来てくれることになっている。本当は「お見舞い」に来るということで約束していたのだが、間に合わなかった。まず11時に自宅を出発、11時半過ぎに実家を出発、12時前に妹さん家を出発。車は2台編成である。14時近くなるかな、とおもったら首都高ガラガラで、1時間半もかからずに着いてしまった。雨が降ったりやんだりの変な天気である。

父上にお線香をあげてもらい、その後茶の間でお茶タイム。姪っ子ちゃんたちもいるので大変賑やかだ。こんな時、小さい子がいると場が明るくなっていいなぁとおもう。だけど家を出る時、母上がすごく寂しそうな顔をしていた。たぶん、もう少しわたしたちにいてほしかったんだとおもう。なるべく母上を一人にしないようにしなければ。

その後近くのファミレスでかなり遅めの昼ごはんを食べ、横浜へ戻る。帰りも首都高はガラガラであった。

9月3日

昼頃、父上が自宅にいる最後の日だから帰ってこいとのお達しを受ける。今日は横浜に帰るつもりだったし、ころすけのごはんも用意していなかったので、とりあえず横浜に帰る。途中、人形町に寄り、小藤屋で父上の好きだった鬼っ子を買った。ごはんの支度をして、ころすけが帰って来てからわたしも軽く食べて、そして実家へ。今日は電車で行くことにした。定期をフルに使うため、京急・浅草線・銀座線・副都心線・東上線とまあ乗り継ぎに乗り継ぎまくり、3時間以上かけて帰宅。たぶんもう二度とやらない。東上線は人身事故でダイヤが乱れていた。駅に着くと、土砂降りだった。傘を持っていなかったので、英二くんに迎えに来てもらった。

帰宅すると、手巻き寿司の用意がなされている。おい、まだ晩ごはん食べていないんかい! 最後の晩餐なので、みんなが揃ってからいただくのだという。なるほど。兄もじきに帰って来て、1時半くらいから最後の晩餐。みんなで思い出話に花を咲かせつつ、お寿司をいただいた。父上いつまで寝てるの、ごはんだよ、とか言いながら。ああ、おうちごはんがいちばんおいしい。しみじみ。わたしの最後の晩餐は、茶碗蒸しとチョコモナカジャンボでよろしく。明日はお通夜だ。

9月4日

斎場に写真や思い出の品などを飾れるというので、何か用意しようということになる。が、データは家だし、プリントする時間もない。それで、MacBook でスライドショーを流すことにした。ころすけにわたしの MacBook をもってきてもらい、iPhoto で即席スライドショーを作った。即席とはいえ、なかなかいいものができたとわたくしこのように自負しております。写真撮っとくもんだなぁ。

11時20分に駅に着くというころすけを迎えに行く。英二くんにサイド(助手席で指導する人)を頼み、普通免許取得後初運転。卒検から実に1ヶ月ぶりである。恐ろしい。しかもスーパーに昼食の食材の買い出しも行くことになり、駐車場とか難易度高いなんてもんじゃない。無理無理無理無理もう無理です! 勘弁して! だけどスパルタ指導員はギブアップさせてくれず、半泣き状態でなんとか帰宅、車庫入れまでしっかりやらされた。ああ、頻繁に乗らないとだめだな。。

お昼に皿うどんを作って食べ、14時頃父上を回収に業者がやってくる。男たちの手で家から運び出され、霊柩車へ。母上は霊柩車に乗り、兄と叔父がうちの車で先発、残りの5人は荷物をまとめてからもう1台の車で追いかける。斎場は赤塚だが、一旦素通りして会社へ行く。会社では、社員の人たちが外に集まって送り出してくれた。そして走り慣れた川越街道を戻って、斎場へ。

斎場は、すいぶんと設備の整った施設であった。特に親族の控え室はまるでどこかのリッパな旅館のようで、これなら快適に泊まれそうだ。広い控え室に盛り上がっているが、あまりのんびりしている時間もないので急いで喪服に着替える。

喪服はいつもただの黒いパンツスーツを着ていたのだが、結婚して所帯を持ったことだし、きちんとしたものを持っていたほうがいいだろうということで、妹と一緒に新調した。先日の祖母の法事のときに買ったのだが、でも結局は、この父上の葬儀のために買ったようなものなんだろう。6月に両親が旅行に行った時に、父上が買ってくれた妹とお揃いの真珠のネックレスをした。少し色が入っているから本当はお葬式には使ってはいけないらしいけど、いいのだ。胸元で淡く光る真珠に、そっと手を触れた。

そして集まった親族で、納棺の儀。お棺に入ると、なんだかいよいよ感が増す。祭壇は花祭壇を選んだ。ありがたいことに各方面からいただいた供花もたくさんあって、なかなか立派なものである。会席室の入口に MacBook を設置してスライドショーを流す。じきに弔問客が集まり始め、18時より通夜が始まる。

お坊さんが入場する前に、兄がコントラバスで父上の好きだった「水色のワルツ」を演奏する。好きだった、とはいうけれど、実際父上が水色のワルツを聴いているのを見たことはほどんとない(笑)。だけど何かというといつも「水色のワルツやってよ、水色のワルツ」と言っていたのだ。もう少し早く知っていればわたしがピアノ伴奏したかった・・・。悔しい。本当に悔しい。でも、コントラバスの演奏、すごくよかった。ああいうふうにサッと弾けたらいいのになぁ。

お坊さんが入場し、葬儀が始まる。焼香はまず喪主の母上。そして兄、弟、わたし夫妻、妹夫妻と続く。親族と、合同葬のため会社関係者の後、一般の弔問客の焼香。弔問の列はなかなか途切れず、後で数えてみれば実に 180人もの方が訪れてくれたという。親族や告別式を入れたら 200 は軽く超えるだろう。料理は大量追加。今まであまり意識したことはなかったが、小さな会社とはいえ一企業の代表たる父上の凄さを感じた。

通夜が終わり、親族も食事。母上と兄上は挨拶挨拶で食べる余裕なし。客が引いて、やっとこさ座ることができた。食べ終わったら、また父上のいる部屋でみんなで楽器を弾いたりした。そして控え室に戻り、風呂に入って寝る。修学旅行みたいな雰囲気で楽しい。そうして父上と過ごす最後の夜は更けていった。

9月5日

5時半起床。母上が着物を着るため、早めに行動をはじめる。6時に近くのジョナサンで朝食をとる。7時に斎場に戻り、のんびりしつつ準備をする。余裕はあったがなんだかんだで時間は過ぎていく。8時半過ぎくらいから親族や受付の人たちが集まり始める。

9時半より告別式。今日は兄上、ピアノでゴルトベルク変奏曲のアリアを弾く。この曲は、バッハの弟子であゴルトベルク少年が、不眠症に悩むカイザーリンク伯爵のために演奏した、という逸話があり、その俗称の由来となっている。父上も病気が発覚する前から眠れないとよく言っていたが、最後は苦しみから解放されて、静かに眠るように逝ったのだった。とてもいい選曲、そして演奏だった。

父の学生時代からの友人の弔辞で、涙が溢れて抑えること能わず。てか、父友人さん、こんな形で初対面になるとは・・・。しかもその弔辞にぷちとものブログ登場。ちょ、恥ずかしいからやめてくれ(笑)。

焼香の後、お棺に花を入れる。お棺には、父上の愛するトランジスタ技術と新聞とリンゴマークのついた帽子、そして鬼っ子。トラ技に埋もれて逝けるなんて、本望じゃないの! MAC LIFE も入れてあげればよかったかね。その6色リンゴマークのついた赤い帽子をかぶって、天国でジョブズに会ってきなよ。ね。

喪主である母上にかわって、兄が挨拶をした。彼は、本当に立派に喪主代行を務めていた。母上をサポートする姿を見て、父上もさぞや安心していることだとおもう。お疲れ様でした。ありがとう。

出棺、戸田の火葬場へ。ついに焼かれてしまうんだなぁ。焼かれる間、いったん待ち合い室に戻る。ここで父の友人と話をしていたのだが、「ともちゃん結婚したこと、すごく喜んでいたよ」と教えてもらった。その他にも、初めて聞くようなことがいっぱいあった。家族には見せない姿や言わないことを、第三者である友人には見せたりしていたんだなぁとおもう。それを少し寂しくおもったりもしたけれど、肉親というのはそういう部分もあるんだよな。

お骨はけっこういっぱいあった。首都圏の火葬場は1日に捌く数が多く、短時間で焼くために火力が強いのでなかなか残らないらしいのだが、頭蓋骨なんかもずいぶん大きい。戸塚のおばあちゃんは骨粗鬆症で、骨壺の半分くらいにしかならなかったのに、父上のは一番大きいサイズだという骨壺にてんこもり。運動はまるでしない人だったけど、骨は丈夫だったのかな。骨壺は業者指定の相当ヘボいものだが、これはあとで移し替えるのである。

そして赤塚の斎場に戻って会食。喪主である母の挨拶、そして献杯の挨拶は叔父である。叔父、つまり父上の弟なんだが、これがまた父上にそっくりで、顔はもちろんロマンスグレー(?)の髪といい、雰囲気や仕草といい、一目見て兄弟とわかる。この葬儀の間、何度か父に見間違えた。叔母が、「寂しくなったらいつでも貸すよ」と言っていた(笑)。14時半を過ぎて、締め。楽器弾けというリクエストを受け、兄がコンバスで「蛍の光」を演奏した。いい締めだった。

帰っていく人たちに挨拶をし、人がはけてから精算だのなんだのして、結局斎場を出たのは15時半。家に着いたのは16時だった。家でしばし休憩し、夜は近所のお蕎麦屋さんでお蕎麦を食べ、家に戻ってハーゲンダッツを食べ、20時に実家を出て、22時過ぎに横浜の自宅に戻った。ああ、終わったんだなぁ・・・。

まあそんなかんじで、時系列を追ってまとめておいた。7月19日に「父上が死ぬ」と認識したので、その日からメモをとっていた。それ以前のことは記憶の断片をかき集めてまとめた。ひどく個人的なことだし、膨大なテキストをここに垂れ流すのも迷ったけど、ここはわたしのブログだし、これもまたわたしの人生のひとつの大事な記録なので、きちんと残しておこうとおもった。読んでくれる人はそうそういないだろうけど、ご清聴ありがとうございました。