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冷い夏、熱い夏

冷い夏、熱い夏6月くらいに予備知識なしで数ページ読んで、あ、これは8月に読もう。と決めて積んでおいた吉村昭「冷い夏、熱い夏」。末期の肺癌に侵された弟の闘病、そして死に至る過程を、兄である「私」が見つめた記録。長編小説とあるけど、ノンフィクションに近いのかな?

この本が上梓されたのは30年近く前で、当時は癌告知=死の宣告であり、患者には告知しないのが一般的だった。筆者も、弟には頑なに病名を隠し通している。だけど、日に日に衰えていく中で、本人がわからないわけないんじゃないか・・・とおもう。それで疑心暗鬼になって、家族との関係がおかしくなるのも嫌だし。父上は自分が癌だって知っていたし、当時と現在を比べると医療は格段に進歩しているわけで、本人の性格とかいろいろ違うこともあるんだけど、でも、死に至るまでのその描写がすごく緻密でリアルで、読んでいてとにかく父上とかぶってしかたなかった。だけどあれからちょうど1年経った今この本を読んでいるのは、何か意味がある気がしてならない。生きることと死ぬことを考えに考えていた1年前。そのことを思い出すきっかけになった。

しかしこのタイトルがまた絶妙だな。本当に冷たく、そして熱い夏だった。

太陽と毒ぐも

太陽と毒ぐもよそのブログ経由。角田光代「太陽と毒ぐも」。おかしな癖のあるパートナーとの生活を描いた短編集。風呂に入らない、物を買い漁る、万引き癖、記念日フェチ、迷信フェチ、などなど。夫婦よりも同棲中の恋人同士というのが多い。

ここまで極端ではないにしろ、一緒に暮らしてみてはじめて気づく似たようなことってけっこうある。わたしは何事もすごい大雑把っていうかまあ早い話がガサツで、ころすけはわりと細かい。このギャップ、ストレスになるかなーとおもったけど、意外とバランス取れてる。今のとこは。先日なんかは、食べるものに対する熱意の温度差(もちろん、わたしの方が食に対する執着心が圧倒的に強い)で、喧嘩というわけじゃないけどわたしがちょっと落ち込んだりしてた。まあそれについては話をして、お互い理解して納得したのでいいんだけど(最近ちゃんと気遣ってくれてるしね)、でもなんかそういうちょっとしたことの歪みが積み重なって、大きな溝になってしまう関係もあるんだろうなぁとおもうなどした。

そんなこともあって、なんか面白く読んだ。人と一緒に暮らすって、譲歩の賜物なんだよな。当たり前だけど、相手を思いやること、相手の立場に立って考えることを忘れないようにしたい。

風が強く吹いている

風が強く吹いているお正月といえば、こたつにみかんに箱根駅伝である。お雑煮とおせちをつついて、箱根駅伝見て、こたつで寝る。ああこれぞ正月。毎年いろんなドラマが繰り広げられ、また母校は箱根常連校なので否が応でも盛り上がる。そんな、箱根駅伝を舞台にした小説なんかあったのね。てことで、三浦しをん「風が強く吹いている」。そういや今年の箱根はすごい強風だった。

素人の寄せ集め集団が箱根を目指す。読んでて恥ずかしくなってくるくらい、ベッタベタなかんじの青春小説。少々(いやかなり?)無理めな設定もあるし、これ箱根駅伝の話じゃなかったらただのスポ根小説としか見てなかったかもしれないけど(笑)、でも箱根駅伝なもんだから、必要以上に感情移入してしまう。ホントに箱根駅伝のドラマを見ているようだった。ていうか、大ブレーキとか、熾烈なシード権争いとか、ドラマみたいだけど実際にあるからね、箱根で。涙の棄権とか、もう見えてるのに繰り上げスタート襷つなげなかった、とかさ。この小説は確かに「夢物語」だけど、やっぱり胸が熱くなる。「走る」という行為の美しさを感じた。

わたし、歩くんなら 10km でも 20km でも歩けるけど、走るとなると 1km でもう足が動かない。でも、走ってみたくなった。ジョギングはじめてみよっかな。

白夜行

白夜行そういや東野圭吾って読んだことないなあ読んでみるか。とおもって買っておいたのに、なぜか宮部みゆきに流れてしまったので、改めて東野圭吾「白夜行」である。

ああ、売れっ子なのわかるなーってかんじのエンターテイメント小説。ちょう長いけど、ぐいぐい読ませる。主人公二人の心理描写がなくて、何を考えてるのかまったくわからないところが不気味さを増している。最終章のぐぐっと真相に迫っていくところは引きこまれた。70年代からの時代背景の描写もおもしろい。わたしより10歳くらい年上の人だったらそのへんもっと楽しめそう。
文庫なのにとにかく分厚くて持ちにくいから、上下巻か3分割くらいでもよかったんじゃないかとw ま、とりあえず幻夜も積んであるので読みますかね。

模倣犯

模倣犯1そういや東野圭吾って読んだことないなあ読んでみるか。とおもって手に取ったのは、なぜか宮部みゆきだった。数年前に絶対買ったはずなのにどこひっくり返して探しても見つからなくて、仕方なくもっかい買ったところの「模倣犯」。はい今さらですね。でもこのちょう長い小説、一気に読んでしまった。面白かった。

ミステリーだけど、群像劇でもある。加害者、被害者、加害者の遺族、被害者の遺族、警察、マスコミ、直接は無関係の人、いろんな立場の人間の心情。回収されてない伏線があったような気もするし、最後はけっこうあっさり?という感じがしないでもないけど、まあそのこ感じ方は人それぞれなのかな。

それにしてもこんだけ長い話を最後まで読ませるのは、やはり作者の力量あってこそなんだろう。映画がヒドいらしいけど、ちょっと見てみたいw

告白

告白ゆきちゃん(仮名)の tweet で面白そうだなと手に取った、湊かなえ「告白」。幼い娘を校内で亡くした中学校の女性教師が、ホームルームで「事故ではない、このクラスの生徒に殺されたのだ」と告白するところから物語ははじまる。
語り手が変わっていくのがおもしろい。おなじ物事でも視点でだいぶ変わってくるのがよくわかる。登場人物たちはみな、悪い意味だけど、すごく人間的だとおもう。嫌だけど、こういう人いるよな、っていう。少年犯罪、復讐、母子関係、教育、HIV など、いろんな重いテーマが盛り込まれてるとはおもうんだけど、もうひとつ消化しきれないのが読後感の悪さにもつながるのかなぁ。細かいとこツッコミ入れてもしょうがないのでそれらはモロモロおいとくとして、それでも緻密な心理描写で一気に読ませた。

モダンタイムス

モダンタイムス・上人は分からないことがあったらまず検索する。インターネットがなかったころはどうしていたんだっけ? とおもってしまうほどに、それは既に当たり前のことになっている。

伊坂幸太郎「モダンタイムス」。この小説の舞台は今から 50年ほど未来。恐妻家のシステムエンジニア・渡辺拓海がある仕事を請け負ってからというもの、彼の周囲では不穏な出来事が次々に起こる。彼らは皆、ある複数のキーワードを同時に検索していたのだった。

社会というシステムは「そういうことになっているもの」「仕組み」であって、その目に見えない大きな何か、漠然としたものに対峙していく。ネット社会、国家や権力といったもの、近未来の話ではあるけど、限りなく現在にも近いかんじで、今まさにそういう方向に向かっているのかもな・・・なんておもったり。

前半は面白かったけど、後半はテンポ悪くなったな。なんかいろいろ中途半端なかんじするし。本筋にはあんまり関係ないけど、気に入った一節↓

美味しいものは、食べると消える。世の中で一番つらいことの一つモダンタイムス(下)

あやめ 鰈 ひかがみ

あやめ 鰈 ひかがみ今月の1冊、ジョブズの自伝。といきたいところだけど、買ってない。あーゆうのは1年後とかにブクオフあたりでやっすく買えるからね。そしたら読んでみてもいっかな、ていう。まあその程度。

で、なんとなく松浦寿輝が読みたくなり(わたしは時折このサイクルがやってくる。たぶん、松浦寿輝が好きなんだとおもう)、「あやめ 鰈 ひかがみ」。年の瀬の東京の片隅で、生と死の狭間で紡ぎだされる3つの物語。それぞれ独立した短編だけど、少しずつ絡みあって夢幻の世界に迷い込む感じが心地良い。しかもこの作品、舞台がウチの近所すぎて、街の描写がわかりすぎるもんだから、ますます現実と幻の境がわからなくなる。年の瀬の、仕事も納まって忘年会もひととおり終わり、でもまだ大晦日まで迫ってはいない、あの消化試合みたいな宙ぶらりんみたいな1日2日の雰囲気がわたしは大好きなんだけど、死ぬ間際のモラトリアムとでもいうか、その感じにちょっと似ていなくもないのかもしれない。1年の終わり=人生の終わりという暗示。この陰鬱な雰囲気、以前読んだ「花腐し」にも似て、やっぱりこの人の小説は好きだなとおもった。

ところでわたしはこの小説ではじめて「ひかがみ」という単語を知った。膝の裏側のことらしい。使ったことも聞いたこともなかったわ。。

中二階

中二階ここんとこジャンルはまったく違うんだけどたまたま外国人作家の著作が続いていたので、なんとなくその流れで積んであった本の中からニコルソン・ベイカー「中二階」を手に取った。

この小説は、一人の男が昼休みを終えてオフィスのある中二階に戻るエスカレータに乗るところからはじまり、下りるところで終わる。その間、彼の思考はめまぐるしく展開され、日常の何気ないことを超ミクロ的に考察している。思考はどんどん枝分かれし脱線に脱線を重ね、それはまたとんでもない長さの注釈となって本文をも浸食する*1。切れた靴ひもにはじまり、牛乳パック、ストロー、ペーパータオル、ポップコーン、耳栓、シャンプー、などなど、日用品とそれをとりまく日常に終始しながらもひとつひとつに物語があり、ところどころニヤリとさせつつ読ませるのだ。普段見落としがちだけど、日常とはなんと楽しいことにあふれているんだろうとおもう*2

*1 この注釈が数ページにわたることもあり、話があちこち飛ぶ上になんどもページを行ったり来たりして、読みはじめはどうも読みにくくて困ったものだ。だけど読み進めるうちにだんだんそれにも慣れてきて、自分のリズムで本文を離れてまた戻って、という動作が出来るようになっていた。お気づきの方がいるかもしれないが、このエントリにおいてこのスタイルをちょっぴり取り入れてみた。

*2 ドラッグストアのレジ係のオネーちゃんが有能で、多少並んでる人数が多くてもレジを捌くスピードが速いので結果早く会計を済ませることができる、というエピソードがあった。ちょうど先日読んだばかりのきのう何食べた? 5巻(この本も、料理が参考になるというだけでなく、日常の幸せをひしひしと感じることができるからほんとうに好きだ)にもこれとまったく同じエピソードが描かれていた。そしてご多分にもれず、わたしにも近所のスーパーにお気に入りのレジのオネーちゃんがいる。彼女のレジ捌きはひときわ秀でている。スピードもさることながら、大量の商品をカゴの中に収めるその整理の仕方が実に合理的で美しいのだ。なので、列の長さや並んでいる客のカゴの中身を鑑みつつ、彼女の列に並ぶことも多い。ある日、彼女のレジで会計を済ませ、袋に商品を詰めて店を出たとき、買ったはずの豆大福を袋に入れた記憶がないことに気づいた。レシートを見ると、たしかにレジは打ってある。袋の中にはやはりない。おかしいな、とおもってレジに戻り、彼女にその旨を伝える。どこかに引っ込んで、しばらくして戻ってきた。手には豆大福。他のお客さんが届けてくれたそうだ。つまり、わたしが袋に入れ忘れていたということだ。大福一つに必死になってる人みたいで(実際必死だったわけだが)、なんとも恥ずかしいことであった。きのう何食べた? において、シロさんの「今時スーパーで買い物するサラリーマンなんか珍しくないし俺のことなんかいちいち覚えていないだろう」という考えとは裏腹に、有能なレジのオバさんは「木曜日の低脂肪乳男」と認識していた(であろう)ことと同様、わたしもよく水曜日に(ポイント5倍デーなのだ)買い物に行くことが多いのだが、いつも作業着であるため、「水曜日の作業着の女」と認識されているんじゃないか、という自意識をもっていた。そしてこの一件で彼女はわたしを「水曜日の作業着の女」から「水曜日の作業着の大福女」と認識したんじゃないか、などというどうでもいい被害妄想にとらわれたりもした。だもんで、彼女の列に並びにくくなってしまった。そろそろ大福のことは忘れてくれているといいのだが。それにしても、ひと月に読んだ本の中でまったく同じエピソードに出会うとは、おもしろいものである。

火宅の人

火宅の人標準語しか喋れない人間にとって、方言というのはどことなくエキゾチックな響きをもって魅力的に聞こえるものだ。個人的に、女の子の博多弁というのは最強の部類だとおもっている。

てなワケで方言で話す女の子に弱い貴方に*1 、檀一雄「火宅の人」。愛人との生活を描いた自伝的小説なんだけど、その愛人恵子が博多弁をしゃべるのね。「好いとるよ」て、くーっ、タマランねぇ。言われてみたいねぇ。ちなみにわたしが言うと、「吸い取るよ」になります。

それにしてもこの主人公桂一雄の(てか檀一雄そのものなんだろうけど)生き方がすぎょイ。がーっと働いてじゃんじゃん稼ぎ、その稼ぎを湯水のようにじゃぶじゃぶ遣って飲んだくれ、スッカラカンになるまで放蕩生活、ついでに料理好き。なんてフリーダム。いいなぁ、うらやましいなぁ。まあ妻子ほったらかしてあっちこっちで愛人つくるのはどうかとおもうけどね。

*1 本読みHP – あいうえお順読書ガイド(ほ)方言で話す女の子に弱いあなたに