わかんない」カテゴリーアーカイブ

涼しいっていうか寒い

今日はバーベキューの予定だったのだが、雨のため中止。あれかな、週末になると雨が降るパターンかな。勘弁してほしいまじで。

でもまあおかげで家の整理すこし進んだし、また暴飲暴食しないで済んだわけだし、これはこれでよかったのだ、と前向きに捉えておくことにしよう。

終りの季節 [9月]

9月1日

4時前に目が覚める。ああ、やっぱり寝ちゃった。家に帰らなきゃ。身支度をしているところへ母上が起きてきて、「帰っちゃうの? 湯灌見ていかないの?」と言う。今日は午前中、遺体を洗う湯灌があるのだ。べつに見なくてもいいかなと思っていたのだが、見ていかないのかと言われると見なきゃいけない気がしてくる。家のことも気がかりだったが、やはり見ていくことにした。

人の出入りが多くなるので、家を掃除する。この家は物が多すぎていけない。9時半頃にやってきた叔父と叔母にまで掃除を手伝わせていて笑けた。玄関が信じられないくらいきれいになった。物がないって素晴らしい。

10時前、業者が来て大きな浴槽を父上の寝ている部屋に運び込み、準備を始める。湯灌の儀式は、故人の身体を洗い清めるだけでなく、現世での悩みや煩悩を洗い落とす意味があるという。なんだ、ただ洗うだけだとおもっていたら、こんなちゃんとした儀式だったのか。帰っちゃうとこだったよ、帰らなくてよかった。身体を洗って、髪も洗って、さっぱりきれいになった。髭は死んでも伸びるそうで、髭も剃った。その後、死装束を着せる。山葵色の着物。やはり和服がよく似合う。みんなで足袋をはかせたりした。わたしは脚絆をつけた。

湯灌が終わり、ちょうど親戚も来ているので供花とか諸々の打ち合わせ。それが終わる頃に、会社の人が来て、午後は母方の親戚が来てくれた。ごはんを作る暇もなく、外に食べに出ることもできずにいたのだが、この親戚がお寿司を買ってきてくれて昼食にありつくことができた。5月に祖母が亡くなった親戚だから、この葬式前の慌ただしい感じがよくわかっているのだろう。感謝である。

時を同じくして、父の友人が父の頼んでいた骨壷を持って来る。イケてる骨壷! こんなの見ちゃうとそこらへんの骨壷なんかショボくて嫌だ。父上がこだわったのがものすごくよくわかる。頼んでいた作家さんの作品は葬儀にはギリギリで間に合わないので、出来上がったらその中から好きなものを選ぶことになった。

遺影に使う写真を選ぶ。前々からみんながいいと言っていた写真があったのだが、小さなキャンバスに印刷されており画質が悪く使えそうにない。撮ってくれた人にも聞いてみたが、どうしても元のデータが見つからなかった。それで、わたしが撮った別の写真を使うことになった。全会一致というわけではないのでちょっと残念だけど、それでもわたしとしてはとても嬉しい。

客が引いて、すこし休憩したら、大掃除を始める。物が多すぎるのだこの家は。とにかく物を捨てまくれ!! とやっていたら、母上がしょぼくれてしまい、またも不穏な空気に。。母上の気持ちを考えてあげなければいけないな。

夜、久しぶりに家で母上のごはん。ここのところ出来合いのものや外食ばかりになってしまっていたけれど、やはり母上のごはんがいちばんおいしい。そして今度こそ横浜に帰る。途中少し雨に降られたりしたが、環八空いてて1時間半もしないで着いた。数日ぶりの我が家。まだまだ落ち着かないけれど、とりあえずホッっとした。家についてじき、土砂降りの雨が降ってきた。

9月2日

葬儀に出席できないため、ころ実家と妹さん家族がお線香をあげに来てくれることになっている。本当は「お見舞い」に来るということで約束していたのだが、間に合わなかった。まず11時に自宅を出発、11時半過ぎに実家を出発、12時前に妹さん家を出発。車は2台編成である。14時近くなるかな、とおもったら首都高ガラガラで、1時間半もかからずに着いてしまった。雨が降ったりやんだりの変な天気である。

父上にお線香をあげてもらい、その後茶の間でお茶タイム。姪っ子ちゃんたちもいるので大変賑やかだ。こんな時、小さい子がいると場が明るくなっていいなぁとおもう。だけど家を出る時、母上がすごく寂しそうな顔をしていた。たぶん、もう少しわたしたちにいてほしかったんだとおもう。なるべく母上を一人にしないようにしなければ。

その後近くのファミレスでかなり遅めの昼ごはんを食べ、横浜へ戻る。帰りも首都高はガラガラであった。

9月3日

昼頃、父上が自宅にいる最後の日だから帰ってこいとのお達しを受ける。今日は横浜に帰るつもりだったし、ころすけのごはんも用意していなかったので、とりあえず横浜に帰る。途中、人形町に寄り、小藤屋で父上の好きだった鬼っ子を買った。ごはんの支度をして、ころすけが帰って来てからわたしも軽く食べて、そして実家へ。今日は電車で行くことにした。定期をフルに使うため、京急・浅草線・銀座線・副都心線・東上線とまあ乗り継ぎに乗り継ぎまくり、3時間以上かけて帰宅。たぶんもう二度とやらない。東上線は人身事故でダイヤが乱れていた。駅に着くと、土砂降りだった。傘を持っていなかったので、英二くんに迎えに来てもらった。

帰宅すると、手巻き寿司の用意がなされている。おい、まだ晩ごはん食べていないんかい! 最後の晩餐なので、みんなが揃ってからいただくのだという。なるほど。兄もじきに帰って来て、1時半くらいから最後の晩餐。みんなで思い出話に花を咲かせつつ、お寿司をいただいた。父上いつまで寝てるの、ごはんだよ、とか言いながら。ああ、おうちごはんがいちばんおいしい。しみじみ。わたしの最後の晩餐は、茶碗蒸しとチョコモナカジャンボでよろしく。明日はお通夜だ。

9月4日

斎場に写真や思い出の品などを飾れるというので、何か用意しようということになる。が、データは家だし、プリントする時間もない。それで、MacBook でスライドショーを流すことにした。ころすけにわたしの MacBook をもってきてもらい、iPhoto で即席スライドショーを作った。即席とはいえ、なかなかいいものができたとわたくしこのように自負しております。写真撮っとくもんだなぁ。

11時20分に駅に着くというころすけを迎えに行く。英二くんにサイド(助手席で指導する人)を頼み、普通免許取得後初運転。卒検から実に1ヶ月ぶりである。恐ろしい。しかもスーパーに昼食の食材の買い出しも行くことになり、駐車場とか難易度高いなんてもんじゃない。無理無理無理無理もう無理です! 勘弁して! だけどスパルタ指導員はギブアップさせてくれず、半泣き状態でなんとか帰宅、車庫入れまでしっかりやらされた。ああ、頻繁に乗らないとだめだな。。

お昼に皿うどんを作って食べ、14時頃父上を回収に業者がやってくる。男たちの手で家から運び出され、霊柩車へ。母上は霊柩車に乗り、兄と叔父がうちの車で先発、残りの5人は荷物をまとめてからもう1台の車で追いかける。斎場は赤塚だが、一旦素通りして会社へ行く。会社では、社員の人たちが外に集まって送り出してくれた。そして走り慣れた川越街道を戻って、斎場へ。

斎場は、すいぶんと設備の整った施設であった。特に親族の控え室はまるでどこかのリッパな旅館のようで、これなら快適に泊まれそうだ。広い控え室に盛り上がっているが、あまりのんびりしている時間もないので急いで喪服に着替える。

喪服はいつもただの黒いパンツスーツを着ていたのだが、結婚して所帯を持ったことだし、きちんとしたものを持っていたほうがいいだろうということで、妹と一緒に新調した。先日の祖母の法事のときに買ったのだが、でも結局は、この父上の葬儀のために買ったようなものなんだろう。6月に両親が旅行に行った時に、父上が買ってくれた妹とお揃いの真珠のネックレスをした。少し色が入っているから本当はお葬式には使ってはいけないらしいけど、いいのだ。胸元で淡く光る真珠に、そっと手を触れた。

そして集まった親族で、納棺の儀。お棺に入ると、なんだかいよいよ感が増す。祭壇は花祭壇を選んだ。ありがたいことに各方面からいただいた供花もたくさんあって、なかなか立派なものである。会席室の入口に MacBook を設置してスライドショーを流す。じきに弔問客が集まり始め、18時より通夜が始まる。

お坊さんが入場する前に、兄がコントラバスで父上の好きだった「水色のワルツ」を演奏する。好きだった、とはいうけれど、実際父上が水色のワルツを聴いているのを見たことはほどんとない(笑)。だけど何かというといつも「水色のワルツやってよ、水色のワルツ」と言っていたのだ。もう少し早く知っていればわたしがピアノ伴奏したかった・・・。悔しい。本当に悔しい。でも、コントラバスの演奏、すごくよかった。ああいうふうにサッと弾けたらいいのになぁ。

お坊さんが入場し、葬儀が始まる。焼香はまず喪主の母上。そして兄、弟、わたし夫妻、妹夫妻と続く。親族と、合同葬のため会社関係者の後、一般の弔問客の焼香。弔問の列はなかなか途切れず、後で数えてみれば実に 180人もの方が訪れてくれたという。親族や告別式を入れたら 200 は軽く超えるだろう。料理は大量追加。今まであまり意識したことはなかったが、小さな会社とはいえ一企業の代表たる父上の凄さを感じた。

通夜が終わり、親族も食事。母上と兄上は挨拶挨拶で食べる余裕なし。客が引いて、やっとこさ座ることができた。食べ終わったら、また父上のいる部屋でみんなで楽器を弾いたりした。そして控え室に戻り、風呂に入って寝る。修学旅行みたいな雰囲気で楽しい。そうして父上と過ごす最後の夜は更けていった。

9月5日

5時半起床。母上が着物を着るため、早めに行動をはじめる。6時に近くのジョナサンで朝食をとる。7時に斎場に戻り、のんびりしつつ準備をする。余裕はあったがなんだかんだで時間は過ぎていく。8時半過ぎくらいから親族や受付の人たちが集まり始める。

9時半より告別式。今日は兄上、ピアノでゴルトベルク変奏曲のアリアを弾く。この曲は、バッハの弟子であゴルトベルク少年が、不眠症に悩むカイザーリンク伯爵のために演奏した、という逸話があり、その俗称の由来となっている。父上も病気が発覚する前から眠れないとよく言っていたが、最後は苦しみから解放されて、静かに眠るように逝ったのだった。とてもいい選曲、そして演奏だった。

父の学生時代からの友人の弔辞で、涙が溢れて抑えること能わず。てか、父友人さん、こんな形で初対面になるとは・・・。しかもその弔辞にぷちとものブログ登場。ちょ、恥ずかしいからやめてくれ(笑)。

焼香の後、お棺に花を入れる。お棺には、父上の愛するトランジスタ技術と新聞とリンゴマークのついた帽子、そして鬼っ子。トラ技に埋もれて逝けるなんて、本望じゃないの! MAC LIFE も入れてあげればよかったかね。その6色リンゴマークのついた赤い帽子をかぶって、天国でジョブズに会ってきなよ。ね。

喪主である母上にかわって、兄が挨拶をした。彼は、本当に立派に喪主代行を務めていた。母上をサポートする姿を見て、父上もさぞや安心していることだとおもう。お疲れ様でした。ありがとう。

出棺、戸田の火葬場へ。ついに焼かれてしまうんだなぁ。焼かれる間、いったん待ち合い室に戻る。ここで父の友人と話をしていたのだが、「ともちゃん結婚したこと、すごく喜んでいたよ」と教えてもらった。その他にも、初めて聞くようなことがいっぱいあった。家族には見せない姿や言わないことを、第三者である友人には見せたりしていたんだなぁとおもう。それを少し寂しくおもったりもしたけれど、肉親というのはそういう部分もあるんだよな。

お骨はけっこういっぱいあった。首都圏の火葬場は1日に捌く数が多く、短時間で焼くために火力が強いのでなかなか残らないらしいのだが、頭蓋骨なんかもずいぶん大きい。戸塚のおばあちゃんは骨粗鬆症で、骨壺の半分くらいにしかならなかったのに、父上のは一番大きいサイズだという骨壺にてんこもり。運動はまるでしない人だったけど、骨は丈夫だったのかな。骨壺は業者指定の相当ヘボいものだが、これはあとで移し替えるのである。

そして赤塚の斎場に戻って会食。喪主である母の挨拶、そして献杯の挨拶は叔父である。叔父、つまり父上の弟なんだが、これがまた父上にそっくりで、顔はもちろんロマンスグレー(?)の髪といい、雰囲気や仕草といい、一目見て兄弟とわかる。この葬儀の間、何度か父に見間違えた。叔母が、「寂しくなったらいつでも貸すよ」と言っていた(笑)。14時半を過ぎて、締め。楽器弾けというリクエストを受け、兄がコンバスで「蛍の光」を演奏した。いい締めだった。

帰っていく人たちに挨拶をし、人がはけてから精算だのなんだのして、結局斎場を出たのは15時半。家に着いたのは16時だった。家でしばし休憩し、夜は近所のお蕎麦屋さんでお蕎麦を食べ、家に戻ってハーゲンダッツを食べ、20時に実家を出て、22時過ぎに横浜の自宅に戻った。ああ、終わったんだなぁ・・・。

まあそんなかんじで、時系列を追ってまとめておいた。7月19日に「父上が死ぬ」と認識したので、その日からメモをとっていた。それ以前のことは記憶の断片をかき集めてまとめた。ひどく個人的なことだし、膨大なテキストをここに垂れ流すのも迷ったけど、ここはわたしのブログだし、これもまたわたしの人生のひとつの大事な記録なので、きちんと残しておこうとおもった。読んでくれる人はそうそういないだろうけど、ご清聴ありがとうございました。

終りの季節 [8月]

8月4日

菩提寺の御施餓鬼法要の前に、朝うちに寄る。父上に久々に会うころすけ曰く、痩せた、頬がこけた。たしかに。そして頬がこけているので、ずいぶんじいさんに見える。祖父が死ぬ直前くらいのかんじに似ている、とふっと思った。

夕方、カッパの写真展に来てくれる。腹水でお腹は出ており、歩き方もヨタヨタしている。だいぶ痩せてしまっているのでカッパの仲間たちに何か言われるかなとおもったが、特に誰も何も言わなかった。初対面の人にはわからない程度なのか、それともただ単に言わなかっただけかはわからないけれど。

8月9日

母上と電話する。昨夜、また寒気がするとかで病院に行ったらしいが、幸い大事には至らず、入院もなし。ただこのあたりから、急速に病状は悪化していく。食欲もなくなり、ほとんど食べない。食欲がないって・・・もうそんなところまで来てしまっているの? 11月のおでんの結婚式、果たして間に合うのだろうか。

そう、妹の結婚式が、11月15日にある。6月に余命宣告された時にも、早めるという話は出た。でも、わたしはどうしても早めるのが嫌だった。そこで父上の命を短くしてしまうような気がして。だから、どうしても11月15日にやってほしかった。結局この日は11月までがんばろう、きっと大丈夫、ということになった。18~19日は家族でキャンプに行くことになっている。大丈夫かな。いや、行こう。行くんだ、絶対。

8月11日

呉服屋さんのイベントで、みんなで浴衣を着て東京湾大華火祭。英二くんは仕事で来られなかったけど、ころすけとかくちゃん(おでんの旦那さん)も交えて花火クルーズ。父上はわりと普段から浴衣を着ているだけあって、上等な着物がとてもよく似合う。痩せてお腹は腹水でで腫れ、口数も少なくせっかくの今半のお弁当にも少ししか手をつけなかったけど、花火は楽しんだ様子だった。この日のクルーズ、ここ数日の急激な体調悪化で行けるかどうか微妙なところだったのだが、みんなで行けて本当によかった。東京湾に咲く大輪の花、美しくもすぐに夜の闇に消えていくのを見て、なんだかひどく切なくなった。花火をじっと見上げて、父は何を思っていたのだろう。その静かな横顔が、やけに印象に残った。

8月13日

検査のため入院。わたしは前日からころすけと2人でツーリングに行っていたので、翌朝湯沢からの帰り、所沢 IC で下りて病院に寄る。8時過ぎに着いた。

個室に入って、ドキッとした。心電図モニタをつながれて、ピッ、ピッ、と、電子音が小さく室内に響いている。父上は寝ているのだが、パジャマのズボンが半分ずり下がって、なんかもう、あと一週間の命の病人といった体なのだ。ふっとそんな印象を受けたもんだから、ひどくショックだった。6月にあと4ヶ月と言われたけど、とてもあと2ヶ月ももつとはおもえないほどに衰弱している。おでんの結婚式まではなんとかもってほしいけど・・・9月に早めたとしても間に合うんだろうか、というくらいの感じだ。どう捉えていいのかわからない。わたしにできることは何なんだろう。父上の今の心の中はどうなんだろう。

そんなことを考えていると、じきに父上が起きた。自力で起き上がれず、体を起こすのを手伝う。こんなに痩せちゃった、と腕を見せる。腹水がたまって苦しく、食べると痛いらしい。「早く水抜いてくんないかな~」と言いながら、ぱんぱんに膨らんだお腹をさする。まるで妊婦のようだ。週末キャンプ行くんだよ、と言ったら、「無理だな〜」と力なく言う。父上が好きで、湯沢に行くといつもお土産に買ってきたわさび茶漬け、食べられないかなとおもって買わなかった(てかノグチで見当たらなかった)んだけど、やっぱり買ってくればよかった、とひどく後悔した。

夜、親戚が呼ばれて全員集まったらしい。もうやばいってことなのか?この日、はじめてころすけの前で泣いた気がする。

8月15日

みんなで墓参りツアーのはずだったが、父上の状態がよくないのでわたしところすけで墓巡りと鎌倉の親戚の家に行く。叔母によれば、昨日は会社の人とかもお見舞いに来ていて、心電図とか見て「これ作れるよなー」「打ち合わせしなきゃ」とか言っていたらしい。こんな状況でも仕事のことを考えている。

夜、弟から電話が入る。英二くんが言うには、ここ数日かそこらだという。は? 嘘でしょ? 数日て・・・いくらなんでも早すぎる。そこで母上に電話をするのだが、同じことを言う。腹水がたまるのは、本当にもう間際らしい。腹水を抜こうにも抜けないそうだ。とにかく明日はバイクで会社に行き、しばらく実家から通うことにする。今わたしにできることなんて、顔を見せることしかない。

8月16日

勤務先の社長に父上のことを話し、休みがちになるかもしれない旨を伝える。お盆休み中ということもあって、休んでいいからお父さんのそばにいてあげなさいと言ってくれる。ありがたい。とりあえず今日の様子を見てから考えますと伝え、終業後バイクで病院へ向かう。

父上は、先日とあまり変わらないように見受けられた。じきに会社の人がお見舞いに来てくれた。仕事の話をしていると、本当にすごく生き生きしている。やっぱり仕事が一番大事なんだろうなぁ。お腹もまあ張ってはいるけど昨日ほどではないらしい。表情もよくて、肌ツヤもよくて、今日はずいぶん元気そうにみえる。自分で歩いてトイレに行ったりもしている。誰だよあと数日とか言ったの。全然大丈夫じゃん!

母と兄と3人で、晩ごはんに駅で買ってきたお寿司を食べていると、父上も食べたそうにしている。「食べる?」と聞くと食べると言って、2つくらい食べた。あとぶどうも食べていた。食欲があることに安心する。

英二くんは21時半頃、おでんは22時半頃到着。そして全員で家族会議。おもに相続に関することで、かなり事務的な話である。てか、お金のこと全然ちゃんとしてないじゃん。今まで何してたのよってなもんで。こりゃまだまだ死んでもらうわけにはいきませんねー。おでんの結婚式は9月初めくらいにしようということで調整することになった。どうか、どうかもちこたえてほしい。

8月18日

本当は1泊2日でキャンプに行く予定だったのだが、とても無理だというので家の庭でバーベキューをすることになった。そのために、今夜から外泊となる。みんなが揃って、夜ごはんは手巻き寿司。父上は腹水で張ったお腹が苦しいらしくあまり手をつけないが、少しだけ食べていた。水と、ビールも少し飲んでいた。食後、父上は先に寝る。その後みんなでいろいろ話す。相続税のこととか。2時過ぎくらいになり、みんな寝るといって2階に行く。わたしは少し後になってお風呂に入ろうとパジャマを取りに2階に行ったら、みんな父上の寝室に集まっていたのでわたしもそこに加わった。そこでもまたいろいろ話した。膵臓の機能からはじまって、人間の身体の様々なことに話は及ぶ。結論は、有酸素運動大事。ちょう大事。運動習慣つけましょう。

8月19日

朝からバーベキューの買い出しに出かける。父上に飯盒と薪でごはんを炊いてもらいたかったが、炭はあるものの薪が調達できず、そもそも父上に準備をする気力は残っていなかった。父上の炊くごはんは、3月のキャンプが最後になってしまったか。本当においしいごはんだった。もう一度、いやもっともっと食べたかったな。

段取りが悪いながらもなんとか昼からバーベキュースタート。父上はさすがにあまり食べていなかった。あっとゆーまにお腹いっぱいになってしまい、例によって焼きそばまで届かず、無念。途中、お見舞いに来てくれた人がいたので父上は部屋に戻り、そのまま昼寝に入った。ころすけに少々庭の植木の伐採を手伝わせた後(我が家は全員背が低いため、長身の彼はたいへん重宝されるのだ)、我々も昼寝。夕方になって起き出し、昼間食べられなかった焼きそばで夜ごはんとなる。かくちゃんも仕事が終わってから合流し、総勢 8名で茶の間にひしめく。今まで家族 6人が揃っても「あれ、こんなもんだったっけ? 少なくね?」と感じることが多かったのだが、そこに婿殿×2が加わるとだいぶ賑やかになってとても楽しい。家族が増えるっていいな。これに嫁さん×2も加われば、國弘家は完全体となるだろう。兄よ弟よ、健闘を祈るw

8月21日

バイクが入院中で実家に帰れず、母に電話する。今日は父の飲み仲間が病院に来てくれて、いい顔をしていたそうだ。病気のことは、会社の代表取締役という立場的なこともあり、本人の強い希望で周囲にはずっと伏せていたのだが、ここにきてついに友人たちに知らせている模様。でも調子はよさそうで、安心する。

8月22日

19時前に病院到着。夕食中のようだが、食べているのはオレンジゼリーだけ。病院食が美味しくなく、食べたくないらしい。体調はよさそうに見える。顔色もよく、一時期よりも頬がふっくら(とまではいかないがいくぶん回復)したような気がする。が、酸素吸入の管を鼻に入れている。そうしないと苦しいところまできているのか。

しばらくしてベッドから立ち上がり、自分で歩いてトイレに行く。尿は出るが、便はもうずいぶん出ていないらしい。身体の機能がだめになってきているということなのだろうか。また今朝、医師から「話がある」と言われていたらしい。その話というのは何だったのかと聞いても、今ひとつはっきりしない。お腹がぱんぱんに膨れているが、どうも水は溜まっていないらしい。とすると、膵臓が炎症を起こして腫れているのか、ガスが溜まっているのか、その両方か。なんだかよくわからない。

20時前、母の友人と呉服屋さんがお見舞いに来てくれる。父上もいただいたお菓子を少し食べた。喉が渇くようで、お茶はよく飲んでいた。明日は経理士さんが来ることになっていて、小さな目標のひとつであった。少しずつ、近くの小さな目標を作りながら生きている。大きな目標は、9月19日のおでんの結婚式だ。

帰宅後、「余命一ヶ月の花嫁」を見た。部位や年齢は違えども癌の末期、父上がこれからたどるであろうプロセスが描かれているということで。その病気の経過はまあそれとして、この子は何がしたいとか、助けて、とか、心の内を家族や恋人や友人に打ち明けている。だから、周囲の人々も精一杯のことをしてあげている。恋人が、「してあげられることは全部やった」と言い切っているのがすごいとおもった。父上は、どうしたい、とか、何も語ってはくれない。残された少ない時間の中で、わたしたちは何ができるのだろうか。そして父上の本心を聞くことができるのだろうか。

8月24日

19時前に病院到着。様子は2日前と変わらないかんじだが、先ほどトイレに行く際によろけて転びそうになったらしく、ベッドのちょっとした動きでセンサーが反応するようになり、頻繁にナースコールが勝手に鳴る。バッハのメヌエット(自分で押した時)とショパンのノクターン(自動で反応した時)。この音、記憶に残るんだろうな、などとぼんやり思った。

それにしても、戸塚のおばあちゃんにそっくりだ。顔とか髪の毛のかんじとかもそうだし、仕草のひとつひとつがまったく同じである。おじいちゃんにも似てるとおもったけど、最近はおばあちゃんのほうがよく似ていると感じる。記憶が新しいからより強く感じるのだろうか。本当に似ている。

8月25日

朝8時前くらいに、母上と病院へ。病院食がおいしくないというので、家からごはんをタッパーに入れて持って行って、お茶漬けにして食べている。けっこうしっかり食べていた。病院で出されたみそ汁も飲んだ。

医師の回診。母上が呼び出されて病室の外で話をしている。母上が戻ってくると父上は「なんだって?」と問う。母上は、「ちゃんと食べなきゃだめだよって。元気になって会社行くんでしょ。会社が心配なんだから」と言う。父上特に返事なし。後で聞けば、今後の経過についてだった。ネットとかで調べたとおりだけど、これからさらに呼吸が苦しくなり、また痛みが増してくる。耐え切れないほどになるとモルヒネを投与することになり、そうなると次第に意識がなくなる、と。それがいつぐらいになるのか・・・。おでんの結婚式まではなんとかもってほしい。お願い。

8月27日

病室に入って、愕然とする。ちょうど看護師さんがトイレの世話をしてくれているところだったのだが、もう、凄まじい衰えよう。まる2日あいただけで、こんなにも衰えてしまうのか。聞けば、昨日くらいまでは今までと変わらないかんじだったらしい。が、今朝だいぶ衰え、それでも朝ごはんはそれなりに食べたらしいのだが、半日でさらに一気に衰えてしまったようだ。目はとろんとして、半分寝ているみたい。そうでない時は目が泳いでいでぼんやりしている。薬によるものなのだろうか。まだモルヒネの投与はしていないそうだけど。酸素吸入器は鼻だけのじゃなくて口から全体を覆うものになり、紙おむつになって、甚平だと脱ぎ着が大変になってきたので病衣になって、ますます衰え感。酸素吸入器をなんか横にしたがってごにょごにょやったりして、ちょっとおかしい。痴呆のような感じも見受けられる。薬によるものなのか、脳まで癌細胞にやられているのかはよくわからないけれど。

確実に、死に近づいている。いや、もう、すぐそこのような。今が体調の波の底で、また回復してくれたりしないだろうか。なんかもう、そんな期待すら抱けないような、ただただ弱って死を待つだけのように感じられる。会話もかみあわず、父上が今何を考えているのか、まったくわからない。父上の本心を、このまま聞けないまま終わってしまうのだろうか。なんて、なんて悲しいんだろう。

20時過ぎ、父の仕事仲間であり友人でもある2人が来る。あまりの衰弱っぷりに、ショックを隠せない様子であった。奇跡を信じる、みたいなことを言うんだけど、もはやそんな段階ではないのは明白で、気休めにもならず、誰も何も反応できなかった。母上は、「今日車で走ってて、スカGみたいなのがいて、あーいいなって、ソアラとか、ああゆう2ドアのスポーツカーに乗ってどっか行ったりしたかったな」と話しながら、涙ぐんだ。母上がこの父上のことで涙を浮かべるのを、はじめて見た気がする。父上のこともそうだけど、母上のことも支えてやらなきゃいけないなと心からおもう。明日はまた親戚一同がやってくるらしい。

8月28日

朝、病院に寄ってから出勤しようとおもっていたが、時間がなくて行けず。母上にメールで「父上どう?」と聞いたら、「昨日よりも衰えたかな」との返信。

昼休み、母から電話。朝方、父上が正気を取り戻して、「家に帰りたい」と言ったそうだ。ただ、家に帰るにしても、誰かしらつきっきりで介護しなければいけないし、トイレの世話やらなんやら、素人で大丈夫なのかという不安もある。だけど、父上の意思を尊重してあげたい。会社を休むことはできると伝え、後の判断は任せる。

夜、家族会議のため集合。19時過ぎに病院に着くと、親戚が来ていた。じきに帰る。友人たちやかくちゃんも来てくれている。なぜか今日は夕食がちゃんとした食事が出されていた。ほとんど手を付けていないが、おかゆを少しだけ食べたらしい。浴衣から心電図(ナースステーションでモニタされてるらしい)のコードが出ている。そこから覗く、肋骨。もう、骨と皮だけになってしまっている。微熱があって、汗をかなりかいている。身体の中で癌細胞と闘っているのだろう。

父上が立とうとする。トイレに行きたいらしい。「そのまましていいんだよ」と母上が言ってもきかない。母上はオムツになったのがかなりショックだったようで、頑なに「オムツしてるから」とは言わなかった。ベッドで揉めているとまた自動で反応したナースコールで看護師さんが来たので、説明してもらったらわかったようだ。だけど、次にまた尿意をもよおすと、やっぱりトイレに立とうとするのだった。まだその感覚は崩壊していないのだ。

20時頃、呉服屋さんが来る。おでんの結婚式の衣装ができたので、もってきてくれたのだ。ちょっと羽織って父上に見せようということだったが、病院のカンファレンス室を借りて簡単に着付けてくれた。すごくすごく素敵な着物。こんな立派な衣装が着られるのも、全部父上のおかげなんだよ。絶対本番で見なきゃ! 三週間後、9月19日が、永遠に来ないんじゃないかってくらい遠く感じる。でも、どうか、どうかもちこたえてほしい・・・。ただただ祈るのみだ。

座薬を入れる時間になったので、一旦みんな退室。エレベーターホールで今日の本題の会議。自宅に帰るかどうかということなのだが、やはり難しいのではないか、ということになる。本人の意思を尊重したい、できることならそうしたい。だけど実際問題、運ぶのだって相当難しいだろうし、ベッドのことや介護のことも難しい。他の人間の都合になってしまうんだけど、どうしても仕方がない。

8月29日

昼休み母と電話。状態は落ち着いているらしい。朝ごはんもけっこう食べたようだ。今朝、医師に病院でお願いする、という話をしたらしいんだけど、でもやっぱ父上は帰りたいと言うらしい。なので、とりあえず介護ベッドとかのことを調べてみようか、ということになった。

だいぶ家を空けているのでいろいろ気になることもあるし、日中元気そうだったというので、今日はわたしは横浜の自宅に帰ることにした。21時過ぎ、夕食を食べているところへおでんから電話。ギクリとするが、彼女の声はそんなに深刻そうではない。けれど、父上の状態があまり芳しくない、できればすぐに来てほしいとのことだった。わたしはたった今茹でたばかりのとうもろこしをカバンに突っ込み、ろくに片付けや準備もしないままに急いで病院へ向かう。

家を出るとき、ころすけに一緒に行けないかと言うと、「そんなにやばいの?」と。わからないけど、とにかく一緒に来て欲しかった。でも戸締りや食事の途中だったからその片付けもしなければならないし、その他諸々の準備もあるからとりあえずわたしは先に出た方がいいということで、駅までバイクで送ってもらう。CBR の後部座席でころすけにしがみつきながら、泣き出しそうになるのを必死でこらえた。夜の風がやけに涼しく感じられた。空には月が明るく光っていた。ああ、満月が近い。

駅に着くとすぐに電車が来た。乗り込んで、ころすけにメールを打つ。今日かもしれないし、明日かもしれないし、また持ち直すかもしれない、こればっかりはわからない。ただ、もしかしたら最後になるかもしれないから、あなたにも父上に会ってもらいたい。そう伝えた。電車の中で、いろんなことに思いを馳せては泣きそうになるのをこらえるけれど、涙が溢れて止まらない。バッグの中からは、場違いみたいに、とうもろこしの甘いにおいが漂っていた。

23時半に病院到着。母上とおでんがいて、病室は静かな雰囲気であった。お兄ちゃんは会社で用事をこなし、英二くんは今日は仕事で来られない。父上は、薬が効いてるようで眠っていた。落ち着いているようなので一安心。だけど、朝から痰が出始め、呼吸が苦しくなるので痰の吸引をしていた。その吸引が、見ているこちらまで辛くなるほどにかなり苦しいらしく、体力を消耗している様子。

24時半、梨ととうもろこし(生)を持って、ころすけ到着。朦朧としていてもうわからないけれど、とにかく会えてよかった。みんなでわたしが持ってきた茹でとうもろこしを食べた。ころ実家にいただいた、北海道から送られてきたもぎたてとうもろこし。すごく甘くておいしかった。じきに兄も会社から戻り、今日はみんなで病室に泊まる。そして、やはり家に帰してあげようという方向で話を進めることになった。なんとなく仮眠しながら、夜が明ける。5時すぎにころすけは横浜に帰る。この日半休を取ったので、仮眠をとって午後から出社するとのこと。ありがとうね。

8月30日

今日は会社を休むことにした。梨とせんべいで朝食にならない朝食をとり、ずっと病室にいる。9時頃、医師が回診にやってくる。主治医の先生が今日から札幌で学会のため、今日は代理の先生。なんだか生気がない人だ。退院したい旨を伝えると、いま酸素吸入や痰の吸引をしているけれど、それがなくなると酸素が足りなくなり、じきにだめになるだろう。それでもいいというのなら、引き止めはしない、と。しかし、このまま病院にいても数日延びるとかそんなもんだろう。だったら、本人の意志を尊重して、家に帰してやりたい。ただ、本当に苦しそうなので、迷いもある。このまま病院で、モルヒネをやって楽にしてもらったほうがいいのではないか。家に運ぶだけでも相当体力を消耗するだろうし、家までもつかどうか・・・。だけど、どんな選択をしても、どこかで後悔は残るだろうし、やはり帰してあげよう、と決めた。死にに帰るようなものだけど、本人がそうしたいと言うのだから、きっとそれでいいのだ。英二くんが来たら、みんなで一緒におうちに帰ろう。「よく決心されましたね。國弘さん、愛されてますね」と、看護師さんが言った。

父上は明け方からずっと眠れないようで、ぼんやりしているが起きている。座薬が効いているのか痛みは訴えないが、呼吸が苦しい様子。時々看護師さんが痰を吸引しにきてくれるのだが、とにかくこれを嫌がる。ある時は、この衰弱しきった病人のどこにこんな力が残されているのか、というくらいに暴れて、全力でこれを拒んだ。最後の方はそんな気力もなくなってしまったのか、そこまで抵抗することもなくなっていたが、それでもかなり苦しそうであった。

なんだか左腕がびしょびしょだとおもったら、点滴の針が抜けて漏れていた。さっき暴れた時にとれてしまったのか。また、高熱で汗をかいているため心電図のモニタのパッチがとれてしまうので、よく看護師さんがとりかえにきていた。

昼過ぎ、毎日顔を出してくれている父の仕事仲間が来てくれる。父と一緒にやっているプロジェクトのことで、ペルー大使館でのプレゼンをしてきたそうだ。この時、わりと意識がはっきりして、彼の名前を呼んだり、「プレゼン成功しましたよ」と言うと、「やったな!」と言ったりした。意識があって、きちんと意思疎通がなされてはっきりと喋ったのは、これが最後だった。彼の手を摑んでずっと離さなかった。やはり、仕事の話をしているときがいちばん元気になる。

17時頃、会社を早退した弟が到着。そしてじきに、父上の会社の人がくる。その人は創立当時からの社員だから、実に40年、わたしたちなんかよりずっと長い間、苦楽を共にしてきたわけだ。そしてもう1人お見舞いに来てくれるという人がまだ到着しないということで、とりあえず待つので食糧調達。これが最後の晩餐になるのだろうか。例によって寿司やらパンやら小龍包やら。ここ半月ほどで、3年分くらい寿司を食べた気がする。京樽にはずいぶんお世話になった。

18時半頃、父の友人到着。彼は、「もっと早く知らせてくれれば」とか「元気になると信じてる」とか言っていた。わたしたちはもう、死を覚悟しているのだけれど。別れがたいようでずるずると 20時頃までいたが、そろそろ家に帰ろうかということになる。

そしていよいよ帰宅の段取り。死亡時に警察を呼ばないといけないとか、なんかいろいろ面倒なことになるため、退院ではなく外泊という扱いで病院を出ることになった。まず母・兄・私が家に戻り、父上の寝床を作る。布団を積み上げて、少し起き上がれるようにしてある。エアコンもガンガン入れた。準備が終わって、わたしはバイクで、母と兄は車で、水のいらないシャンプー(もうずいぶんお風呂に入っていないので髪がゴワゴワなのだ)だとか、そんなちょっとした買い物をしてから病院へ戻る。

看護師さんがいろいろ画策してくれて(この退院劇に際し、ものすごく気にかけてくれて、わたしたちの力になってくれた。ありがたいことだ)、まず正面玄関までストレッチャーで運び、そこからシーツで数人で自家用車に運び込むことになった。介護タクシー(なるものがあるというのも看護師さんが教えてくれた)という選択肢もあったが、やはり父上が欲しがって買った、新車のプリウスに乗せてあげようということで。運び込みがどうなることかとおもったが、4人の兄弟とかくちゃんで、みんなでやったら意外とスムーズに乗車させることができた。そして酸素吸入器をはずす。大丈夫か? なんとか大丈夫か。車が出発し、わたしはバイクで後を追う。そして無事に家に到着した。よかった、家までちゃんともった。寝室は2階なのだが、2階に上げるのも思ったよりスムーズにできた。シーツ作戦大成功だ。看護師さんありがとう。

さっき作った寝床に横たえる。なかなかいいじゃない。あるものでなんとかなるもんだ。苦しそうではあるが、なんとか大丈夫そう。さっき買ったシャンプーで髪を洗ってサッパリ。よかったねぇ。わたしはこの時もうすさまじく眠くて、とうもろこしを食べたら父上の横で寝てしまった。1時間ほど寝たのか、頭はぼんやりしている。父は苦しそうながらもなんとなく落ち着いている。ので、風呂に入ることにする。

8月31日

シャワーを浴びて髪を洗って流しきったかな、というところで母上がやってくる。ともちゃん、だめだよ! と。あわててバスタオル1枚で階段を駆け上がるも、父はもうすでに全ての動きが止まっていた。あれ、寝てるのかな? というかんじだけれど、たしかに息をしていない。ああああああ夜に爪切ってごめんなさい。。。。。。あああああああ。。。。まあ、気を取り直してみんなで記念撮影。自分の家で、自分の布団で、家族に囲まれて、苦しいとはいえもがき苦しむようなこともなく、最後の最後は眠るように静かに息を引き取れたので、きっとこれでよかったんだとおもう。本当に眠っているかのようで、死んだという実感がないけれど、少しずつ父の身体が冷たくなっていくのがわかった。苦しみから解放されて穏やかに眠る顔を見て、悲しいというよりはなんだかホッとするような、そんな不思議な気分だった。

救急車を呼んで、病院に戻る。2012年8月31日1時49分、当直の医師による死亡確認。死亡診断書の死因の欄には、「膵頭部癌」とあった。看護師さんは、「國弘さんにとって、これがいちばんよかったんだとおもいます。幸せだったとおもいます」と言ってくれた。看護師さん本当にお世話になりました。ありがとうございます。そして遺体の処置をして、身支度を整えてくれた。

父上は互助会に入っていたそうなので、その葬儀屋に連絡をする。葬儀屋を待つ間、この数日に撮りためた父上の写真をみんなで見ていた。その中にかなり笑える写真が何枚かあって、父が死んだその数時間後に本人をネタに爆笑する一家。暗い雰囲気になるよりはいいとはおもうけど、、どうなんだ(笑)。3時過ぎに葬儀屋が来て話をし、4時頃に葬儀屋の車に父上を乗せて帰宅。さっきまで寝ていた布団に、また戻ってきた。ドライアイスなどの処置をして、葬儀屋は帰っていった。他の家族もそれぞれ眠る。わたしは一人、なんとなく眠れずにぼんやりしていた。じきに窓の外が明るくなってくる。夜が明ける。長い長い夜だった。

5時半くらいにようやく寝たものの、なんだかんだで8時半くらいには起きた。会社に父が亡くなったことと、今日も休む旨の電話を入れる。母と兄は会社に行き、弟は一度自宅に戻る。妹夫婦も一度帰るとのことで、わたしが一人で留守番をする。午後に親戚が来て、夕方家族がそれぞれ戻ってくる。

19時に葬儀屋との打ち合わせ。母の友人や父の友人が来てくれたりが重なってしまってメチャクチャになってしまったが、なんとか2時間半にわたる打ち合わせ終了。ごはんの支度をする余裕もないので、外に食事に出る。骨壷問題で変な雰囲気になってしまったが、これは後に解決。わたしはこの日いったん横浜の自宅に帰るつもりだったが、結局そのまま寝てしまった。

終りの季節 [2月~7月]

「俺、近い将来死ぬぞ。覚悟しておいてな。」

2012年2月3日。その日わたしはスキーに行くので、車を借りるために実家にいた。何やら「話がある」とかで他の兄弟も集合がかけられており、兄の帰宅を待っていた。しかしわたしの出かける時間が迫っていたため、結局兄抜きで家族会議がはじまった。そして唐突に父は言う。俺は近い将来死ぬ、と。

人はいずれ死ぬ。そういう話なのかとおもった。父は現在67歳、決して若くはない。日本人男性の平均寿命から考えたら、あと10数年か。たしかにそう遠くはない。しかし、どうもそういう話ではないらしい。そして言う。癌だ、と。去年の11月くらいから腹部の痛みや体調不良を訴えており、あまりに長引くため今年1月にようやく病院で検査を受けた。そしてその結果が出たのが、2月1日だった。これから精密検査になるが、ほぼ間違いないだろうと言う。

癌? この人は何を言ってるの? 勝手に思い込んでるだけなんじゃないの? そうだよそうだよだいたい精密検査まだなんでしょ? 癌なわけないじゃん。ピンピンしてるじゃん。スキーに向かう車の中で、「大丈夫、父上は癌じゃない。癌なわけない」とただ、それだけ考えていた。

かのスティーブ・ジョブズも同じ病気で死に至ったことは記憶に新しい。アップル好きの父は、「ジョブズ君と同じになっちまったよ~」と、半分冗談のように言った。膵臓癌。初期は自覚症状がほとんどなく、発見された段階で既に手術ができない状態というのが過半数を占めるという。そして手術ができなかった場合の1年生存率は、わずか数%。早期発見が非常に困難で進行が早く、極めて予後が悪いことから、「癌の王様」とまで言われるそうだ。そんな王様いらない。

2月中旬に癌研での精密検査の結果で、既に手術ができない状態であることがわかり、地元の病院で抗癌剤による治療を行うことになった。初めは様子を見るために1週間ほど入院したが、副作用もさほどなく、退院した後は血糖値を測って自分でインシュリンを打ちながら普通に会社に行き、生活していた。あまりにも普通なので、癌だということを忘れるくらいだ。それでも父の身体は、確実に蝕まれていたのだ。

3月末、家族でキャンプに行く。数年前から何度か話が持ち上がっていたものの、家族全員の予定を合わせることができずに実行に移せずにいたのだが、無理矢理日程を合わせて決行。15年ぶりとはいえ、父上の飯盒で米を炊く職人技は衰えを見せない。以前と変わらぬ、完璧な炊きあがりのおいしいごはんであった。嵐に見舞われたりしたが、かえって記憶に残るとても楽しいキャンプとなった。

4月26日、わたし入籍。新居も何も決まらないままとにかく入籍をこの日にこだわったのは、父と母の結婚記念日だから。両親は今年、結婚35周年である。そしてまた、妹も結婚するという話が出ている。図らずも重なることとなる。わたしが結婚を決めたのは今年2月、ちょうど父の癌が発覚したのと同時期だった。そのため、手放しにおめでたがるような雰囲気ではなく、父も母も喜んでる感じがあまり見受けられなかったし、実際それどころではなかった。だけど後で父の友人が、わたしが結婚したことをとても喜んでいたと、嬉しそうに話してくれたよ、と教えてくれた。それを聞いたのは、父の告別式の席だったのだけれど。

5月10日、朝 4:44 に iPhone が鳴る。母からのメールだ。こんな早朝に、とドキリとする。母方の祖母が亡くなったとのことだった。ああ、2012年という年は、なんて年なんだろう。本当に、なんて年。

5月12日、帝国ホテルでわたしところすけの小さな結婚式。便宜上「結婚式」と言うことにしているが、挙式はせず、写真を撮って家族だけでの食事会というごくごく内輪の簡単なもの。だけど、これ、やってよかった。心から。家族に囲まれて、心温まるとてもとても幸せな1日だった。友人2人に支度の間だけ写真を頼んだんだけど、これも2人に撮ってもらえて本当によかった。この時撮ってもらった家族写真、すごく大事にしている。宝物、と言ってもいいくらいに。

5月14日、祖母のお通夜の後、戸塚の家で家族会議。おもに会社や相続についてだが、あまり話は進まない。兄は継ぐ気がないとずっと言っていたが、最近は会社を手伝いはじめている。でもあくまで「継ぐ気はない」というスタンスのようだ。そして弟が言う。俺は就職したばかりで今すぐには無理だ。だが、3年待って欲しい。3年で一人前になる。そして3年後に協和電子を継ぐから、と。そして、ただし条件がある、と弟は続ける。それまで絶対に生きろ。3年後、兄が継いでいるならそのままでいいし、やはり継ぐ気がないなら俺がやる。どっちでもいいんだ。とにかく生きろ、と。わたしは溢れる涙が止まらなかった。生きろ。絶対に。3年なんて言わずに、もっともっと。会社の心配がなくなれば、父は肩の荷が下りて楽になるんじゃないか。それで、病気もよくなるんじゃないか。そんな期待が生まれた。大丈夫。きっと大丈夫。

5月15日、祖母の告別式。かあばあに父上の癌を一緒に天国に持ってって、と、うさぎのぬいぐるみに託す。おばあちゃん、お願いね。どうか、どうか。

6月上旬、両親は懸賞か何かで当たったとかで、焼津に旅行へ行く。夫婦で旅行なんて、今までほとんどなかった、というか、初めてかもしれない。途中、その旅行のスポンサーになっているらしき真珠屋に寄ったとかで、わたしと妹にお揃いの真珠のネックレスをお土産に買ってきてくれた。

6月中旬、黄疸が出る。癌が大きくなって胆管を塞ぎ、胆汁が血液に逆流しているとのこと。胆管ステントの手術をして黄疸はなくなったが、体調はあまりよくない様子。そして6月15日、余命4ヶ月との宣告を受ける。本当に? まさか。4ヶ月なんて。ありえない。しかし抗癌剤治療は中止され、緩和ケアへ移っていった。それは、西洋医学の限界を意味していた。それでもわたしはこの時まだ、事実を受け入れていなかった。この日は、妹が入籍した日だった。

6月下旬、両親は銀行の旅行で松島へ行く。図らずも夫婦での旅行が続くこととなる。黄疸騒ぎでどうなるかとおもったが、行くことができてよかった。

6月26日、祖母の四十九日の法事で鎌倉へ。最近はあまり車の運転はしていなかったらしいが、この日の朝は父上が運転していた。カーステレオの音楽に合わせて歌ったりして、楽しそうにしていた。こんな姿を見るとホッとする。しかし昼食会場の駐車場で、母上が車に手を挟まれ負傷。幸い骨までは折れていなかったものの、全治3週間の怪我。本当に、受難の年だ。いったいどんな意味があるというのだろう?

7月から、兄が本格的に父上の会社を手伝うことになった。あまり口には出さないけれど、父上も母上も喜んでいる様子。しかしこの頃、母上が立て続けに車の追突事故を起こす。母上も相当参っているんだろう。家族がしっかりサポートしてやらなければ。

7月中旬、MacBook を買うとかで父上と電話をすると、元気そうな声をしている。なんでも、高輪にある療養施設みたいなところに数日間だけ入院しているらしい。そこではガン友(笑)とかもできて、楽しくやっている様子だった。だけど退院後は、また下降。実家で家族が揃っても、コミュニケーションとろうとしない。本音を語ってくれようとしない。どうしたいのか? わたし達に何ができるのか? 弟は言う。「あれじゃ10月までももたない」

7月17日の夜、寒気がするといって急遽入院。後で兄に聞くところによれば、真っ青になってがたがた震え、本当にやばかったらしい。診断は腹膜炎。翌日電話をするが、元気がない。でも体調はそれなりに戻ったとのことだった。

7月19日、「がんを生きる」を読んでいて、急に「父上が死ぬ」という現実を認識する。朝の通勤電車の中で、どうにもこうにも溢れる涙を止められなくなってしまった。父上は死ぬの? 本当に? あの暗い表情のままで? わたしは父上に何をしてあげられるの? 何もできない? 父上は、残された時間をどう生きたいの? どうしたいか教えて欲しい。全力で叶えてあげたいから。それともそんなこともどうでもよくなってしまっているの? わからない。何もわからない。

7月21日、腹膜炎で入院しているので、家族みんなでお見舞いに。お腹は腹水で膨らんでるし、腕も浮腫んでしまっているけれど、体調は悪くないようで元気そうにしていた。全員揃って行ったので、自然と家族会議。会社のことなんかもう忘れて、好きに生きればいいっておもってたけど、父上にとって、やっぱり会社が全てなんだとおもう。だから、会社がうまく回っていくことが心の安静なのだ。どうしても兄に負担がいってしまうけど、なんとかがんばってほしい。7月24日に退院となる。

イケてる骨壷

父上は、生前にとある作家に骨壷を発注していた。なんでも祖父の時に業者が用意した骨壷が相当気に入らなかったらしく、自分のはもっといい骨壷にしたいと強く希望していたらしい。器とかが大好きだったから、自分が使う最後のモノにはやはりこだわりたかったのだろう。癌が発覚するずっと前から言っていたそうで、それがこんなに早くに実現してしまうとは、なんだか不思議なものだ。

頼んでいた骨壷は、葬儀にはギリギリで間に合わなかった。そもそも骨壷の持ち込みというのはできなくて、どちらにせよ四十九日に納骨する前に、父が発注した骨壷に移し替える必要が出てくる。今日はその移し替えの儀であった。お寺に頼んで、正式な法要ではないので集まれる親族だけ集まって、イケてる骨壷に移し替えた。

世界に2つとない、素晴らしい焼き物の骨壷。父上もさぞや満足していることだろう。

終りの季節

父がこの世を去って、2週間経った。なんだかあっという間だ。わたしは今までと何ら変わることなく、朝起きて、会社に行き、帰ってきて、家事をして、寝る。そしてまた、次の朝が来る。父がいなくなっても、世の中は何事もなかったように動いているし、日々は同じように過ぎていく。家族からの電話やメールにドキリとすることがなくなり、穏やかな日常に戻っていく。

わたしはもう何年も父とは一緒に暮らしていなかったから、普段は父の不在を意識することが少ない。だけどふとした瞬間に、父の口癖だとか、仕草だとか、わたしの名前を呼ぶ声だとかが頭に浮かぶことがあって、たまらなく寂しくなる。実家に帰っても、父の会社に行っても、いつも座っていた席に父上はいなくて、ああいないんだなぁ、とおもったりする。不在という存在の寂しさを感じる。

父が癌と診断されたのは、今年2月。だけどはじめのうちは、全然実感がわいていなかった。というか、事実を事実として受け入れられなかったんだとおもう。父上は死なないとおもってたし、病気はよくなるもんだとおもっていた。信じてた、とかじゃなくて、当たり前にそうおもっていた。死ぬわけないじゃん、と。

だけどある日、本を読んでいる時に、突然事実を受け止めた。佐々木常雄「がんを生きる」。それまであえて避けていたガン本に手を出し始めて、何冊目かに読んでいた本だった。これを読んでいて、なんだかわからないけど急にわたしは「父上が死ぬ」という現実を認識したのだ。朝の通勤電車の中で、溢れる涙をどうにもこうにも止められなくなってしまった。父上は死ぬの? 本当に? あの暗い表情のままで? わたしは父上に何をしてあげられるの? 何もできないの?

6月半ばに、余命4ヶ月と宣告されていた。その頃は、もう以前の父上とはまるで顔つきが変わってしまっていた。体調は日に日に悪くなり、会社では社員の人を怒鳴りつけたりすることも多くなったという。いつも暗い表情をして、心を閉ざしていた。きっと、死について考えたりもしていたとおもう。いや、考えざるをえないだろう。だけど口に出すのは会社のことばかり。わたしたち家族は父上が今何を考えているのか、死についてどう思っているのか、残された時間をどう生きたいのか、それをとても知りかった。父上に本心を語ってほしかった。だけど、その胸の内を語ってくれることは、ついに最後までなかった。何をしてあげられるのか、何もしてあげられないのか。何もわからなかった。それがとても、悲しかった。

父が創業し今までやってきた会社は、来年で40周年を迎える。10年続く企業が 5% と言われる中、苦労しながらもここまできたのはすごいことだとおもう。しかし、67歳の父に替わる後継者がおらず、いつも「会社どうすんだ」と、そればかり言っていた。告別式の席で父上の友人に「子供4人もいてだれもやってくれないんだ」とこぼしていたことを聞いた。継いで欲しいなら素直にそう言えばいいものを、それを強いたくはないと決して言わなかった。一時期わたしも継ぐことをかなり考えたりしたが、結局決断することはできなかった。もう何年も続いていた後継者問題は、父にとって相当なストレスになっていたのだろう。

父の死が避けられないものと知り、残された時間が少なくなるにしたがって、会社のことはもういいから、自分のやりたいことだけやればいいのに、とおもった。好きなことをして、心穏やかに残された時間を大切に生きればいい。他の家族もみんなそう言った。だけど、そうではなかった。父上にとっての心の平穏は、結局のところ会社がうまく回っていくことによって得られるのだ。最後の半月ほどでよくわかった。病状が悪化してきても、会社の人がお見舞いに来ると表情が生き生きとするのだ。仕事の話をしているときが、1番輝いていた。父上にとって、協和電子工業株式会社は、人生そのものだったのだ。

父の死に直面して、死についてものすごく考えるようになった。死ぬこと、そして生きること。人間の身体のこと。死を意識することは、今を大切に生きることにつながる。そして、家族の結束力はより強固なものになったとおもう。これは確実に言えること。特に兄はまるで人が変わった。本当に変わった。兄が変わるために父上が癌になったんじゃないかとおもうくらいに変わった。今まで好き放題していた兄が、会社を手伝い、実家に戻り、父と母のために尽力してくれていた。葬儀で喪主の母をサポートする姿は、本当に立派な長男だった。また、会社の代表という立場的なこともあって、病気のことは本人の強い希望で父の周囲にはずっと伏せられていた。だけど、母の友人たちは毎日のように入れ替わり立ち代りお見舞いに来てくれていた。いよいよ最後になって、駆けつけてくれた父の友人や親戚たち。中には毎日来てくれる方もいて、父も元気づけられたとおもう。この半年で、わたしたち家族はとても大切な大きなものを失ったけれど、得たものもたくさんあったのだ。

今でこそ激しく子供に甘い母上だけど、幼い頃はそれはそれは厳しい母親だった。そんな母の横で、いつも黙って穏やかに見守ってくれていたのが、父上だった。とにかく仕事が第一で、休みの日もとりあえず会社に行かないと落ち着かない。でもそれも全ては家族と社員のためだったはず。子供4人、みんながみんな好き放題して生きてこられたのも、父ががむしゃらに働いてくれていたから。今ならそれがどんなに大変なことか、痛いほどよくわかる。父上、心から、ありがとう。父上と母上の娘で、わたしは本当に幸せでした。親孝行できなくてごめんなさい。父上が天国で安心していられるよう、日々過ごしていきたい。残された家族みんなが幸せであることが、父がいなくなってしまった今できる最大の親孝行だと信じて。

待ち人

感情だけで簡単に決めていいものではない
よく考えて先を見据えた上で
きちんと話し合って結論を出さなければいけない
そうだな
そうだ
うん
大変だ・・・ほんとうに
失ったものの大きさを痛感する

最後の体内の状態

父上は膵臓癌だった。病気の進行としてはごく典型的なパターンだったようで、ネットなどで調べたその通りの経過をたどっていった。

人間の身体の機能が失われていく過程をずっと見ていたわけだけど、その最後、父上の身体の中は、いったいどうなっていたんだろう。最後の体内の状態を CT とか撮って見てみたかった。なんかそれをすごく強くおもう。

もう、焼かれて骨になっちゃったから、それはわからないんだけどね。